筒井康隆の「無人警察」は戦後日本の文学作品の中で最もすばらしい作品である。 [「無人警察」ほか]
漱石の『吾輩は猫である』の探偵化批判(警察化批判)の文脈から、戦後日本の文学作品を再評価するなら、筒井康隆の短編小説「無人警察」が最も秀逸な文学作品と言えるだろう。
まさに正統派の猫党の文学である。
筒井康隆の「無人警察」は、猫党と犬党を見分ける指標となる。筒井康隆の「無人警察」を批判したヒトビトはイデオロギーに関わらず、犬党である。
筒井康隆が「無人警察」で、描いたのは「てんかん患者の差別」ではなく、近未来の警察化した社会であることは、猫党の人々には、簡単に理解できたはずである。筒井康隆の「無人警察」の文脈では、「てんかん患者の差別」をするのは、ロボット警察官であり、機械(ロボット)と区別のつかない警察官であると暗示されている。
筒井康隆の「無人警察」が教科書に採用されていれば、警察化も多少は緩和できたかもしれない。いや、筒井康隆の「無人警察」が教科書に採録されても、『吾輩は猫である』の探偵批判を警察批判と気付かずに、漱石の探偵嫌いとか漱石の暗い部分などと思い込んで、教鞭をとっている国語教師(犬党)が授業をもてば、結果は同じか…。
戦前に『吾輩は猫である』をはじめ多くの漱石作品が教科書に採用されていても、国民皆警察化したのだから、国語教師(犬党)が教える犬党読みというのは、恐ろしい。おそらく北朝鮮で行われている「教化」や「教養」と同じものだ。
北朝鮮の「教養」や「教化」は、松井茂や丸山鶴吉が残した大日本帝国流の社会教化運動の名残なのだろう。
『吾輩は猫である』を犬党読みせずに、普通に読めば、『吾輩は猫である』が探偵化(警察化)を批判していることは、中学生が読んでも理解できるはずなのだが…。
『吾輩は猫である』をはじめ国語教科書に採用される漱石作品は、漱石が『吾輩は猫である』などで「探偵」という語を「警察」の比喩として使っていることに気付いてしまう生まれながらの猫党の素養を持った子供たちを発見するためのリトマス試験紙に使われているかのようである。
きっと、国語教師(犬党)たちは自身に課された、早期に猫党を発見し、猫党を駆除するという危機管理の任務を無意識のうちに果たしているのだろう。
まさに正統派の猫党の文学である。
筒井康隆の「無人警察」は、猫党と犬党を見分ける指標となる。筒井康隆の「無人警察」を批判したヒトビトはイデオロギーに関わらず、犬党である。
筒井康隆が「無人警察」で、描いたのは「てんかん患者の差別」ではなく、近未来の警察化した社会であることは、猫党の人々には、簡単に理解できたはずである。筒井康隆の「無人警察」の文脈では、「てんかん患者の差別」をするのは、ロボット警察官であり、機械(ロボット)と区別のつかない警察官であると暗示されている。
筒井康隆の「無人警察」が教科書に採用されていれば、警察化も多少は緩和できたかもしれない。いや、筒井康隆の「無人警察」が教科書に採録されても、『吾輩は猫である』の探偵批判を警察批判と気付かずに、漱石の探偵嫌いとか漱石の暗い部分などと思い込んで、教鞭をとっている国語教師(犬党)が授業をもてば、結果は同じか…。
戦前に『吾輩は猫である』をはじめ多くの漱石作品が教科書に採用されていても、国民皆警察化したのだから、国語教師(犬党)が教える犬党読みというのは、恐ろしい。おそらく北朝鮮で行われている「教化」や「教養」と同じものだ。
北朝鮮の「教養」や「教化」は、松井茂や丸山鶴吉が残した大日本帝国流の社会教化運動の名残なのだろう。
『吾輩は猫である』を犬党読みせずに、普通に読めば、『吾輩は猫である』が探偵化(警察化)を批判していることは、中学生が読んでも理解できるはずなのだが…。
『吾輩は猫である』をはじめ国語教科書に採用される漱石作品は、漱石が『吾輩は猫である』などで「探偵」という語を「警察」の比喩として使っていることに気付いてしまう生まれながらの猫党の素養を持った子供たちを発見するためのリトマス試験紙に使われているかのようである。
きっと、国語教師(犬党)たちは自身に課された、早期に猫党を発見し、猫党を駆除するという危機管理の任務を無意識のうちに果たしているのだろう。
現在の日本は、梶井基次郎の『檸檬』に描かれた世界より、確実に警察化している。 [「無人警察」ほか]
梶井基次郎の『檸檬』という作品がある。
たしか、
京都の丸善の本の上に爆弾に見立てた檸檬を置いて去っていくという話だった。
『檸檬』は1931年(昭和6年)の作品だが、その当時、書店にレモンを置き去っても、警察に逮捕されるなどということは考えられないことだったから、純文学の作品として残っているのだろう。
『檸檬』の行為は、当時の日本では、ただのイタズラで済む話だったのだ。
全国的な特高警察の組織網が確立(1928年に確立)されていた当時でも、
『檸檬』の行為程度では、警察沙汰になることはなかったのだ。
現在の警察は、特高警察と比べ物にならないくらい、
民主的な警察だと思い込まされているヒトが多いかもしれないが・・・
現在の日本で、
書店にレモン(不審物)を置いて行ったりすると、逮捕されかねない。
書店、スーパー、コンビニ、電車などでは、
駐車違反撲滅協力、万引き犯告訴告知、不審物発見依頼などの店内(車内)放送が流れている。
職員が店内(車内)放送通り対応すれば、
書店、スーパー、コンビニ、電車の網棚などなどにレモン(不審物)を置いたりすると、
警察に通報され、逮捕されかねないのである。
日本はそういう国なのだ。
現在の日本は、梶井基次郎の『檸檬』に描かれた世界より、確実に警察化している。
むかしは、今のような店内(車内)放送をすると、
「客を賊(泥棒やテロリスト)扱いするとはけしからん!」と苦情が殺到したことだろう。
たしか、
京都の丸善の本の上に爆弾に見立てた檸檬を置いて去っていくという話だった。
『檸檬』は1931年(昭和6年)の作品だが、その当時、書店にレモンを置き去っても、警察に逮捕されるなどということは考えられないことだったから、純文学の作品として残っているのだろう。
『檸檬』の行為は、当時の日本では、ただのイタズラで済む話だったのだ。
全国的な特高警察の組織網が確立(1928年に確立)されていた当時でも、
『檸檬』の行為程度では、警察沙汰になることはなかったのだ。
現在の警察は、特高警察と比べ物にならないくらい、
民主的な警察だと思い込まされているヒトが多いかもしれないが・・・
現在の日本で、
書店にレモン(不審物)を置いて行ったりすると、逮捕されかねない。
書店、スーパー、コンビニ、電車などでは、
駐車違反撲滅協力、万引き犯告訴告知、不審物発見依頼などの店内(車内)放送が流れている。
職員が店内(車内)放送通り対応すれば、
書店、スーパー、コンビニ、電車の網棚などなどにレモン(不審物)を置いたりすると、
警察に通報され、逮捕されかねないのである。
日本はそういう国なのだ。
現在の日本は、梶井基次郎の『檸檬』に描かれた世界より、確実に警察化している。
むかしは、今のような店内(車内)放送をすると、
「客を賊(泥棒やテロリスト)扱いするとはけしからん!」と苦情が殺到したことだろう。
池宮城積宝の『奥間巡査』という短編小説は、不可解な不祥事を起こし続けるおまわりさん(警察官)たちの心情を理解する上で、極めて有用な作品である。 [「無人警察」ほか]
池宮城積宝の『奥間巡査』http://www.aozora.gr.jp/cards/000868/files/2689_20502.htmlという短編小説を読んだ。
この短編は、「琉球の那覇市の街端れ」の「特種部落」出身の青年奥間百歳(うくまぬひやあくう)が巡査になるという話で、「大正△年の五月」前後から9月30日(「九月の二十七日」から「四日目」まで)までの物語で、わずか半年ほどの間に、「温順しかった」人間が「巡査としての職業的人間」へと変貌する様子が描かれている。
池宮城積宝は、「特殊部落」の生活について
この物語の主人公である百歳の本当の悲惨は、巡査になることによって始まるのである。
当初は、
また、同じ「特殊部落」の人々も、
百歳は、「大正△年の五月」「奥間巡査は講習を終へると隔日勤務になった。」
そして、「二、三ケ月は」「平和に過ぎた。」かのようにみえたのだが、百歳の心には大きな変化があった。
巡査講習所(今の警察学校)を出てから「二、三ケ月」もすると、家族は百歳の人間性が変わってしまっていることに気付き始めるのだった。※このブログ風にいえば、警察教養(学校教養と職場教養)で人格が変わってしまったことに家族が気づき始めたということである。
「部落」で祭礼があった日に百歳は、
また、
家族ばかりか「部落」の人々も、
「部落」の人々は、百歳の家へ
しまいには、
かといって、
百歳は、警察組織にも受け入れてもらえないのである。
作者が、「特殊部落」の人々の人間性と「巡査としての職業的人間」の人間性とを対比させるために、わざわざ「特殊部落」の青年が巡査になる設定にしているようだが・・・
現在の警察でも、同僚が拳銃自殺したときに口裏合わせして「拳銃の発射音は聞こえなかった」と証言できるヒトばかりなのだから、「特殊部落」の出身でなくても、「同僚の中には、ほんとうの友情を見出すことは出来」ないであろうことは容易に想像できるだろう。※兵庫県警には知人にしか公開していないブログで兵庫県警での職務や上司についての感想を書いた女性警察官が処分されている。
警察では、同僚は友人ではなく、密告者なのである。
百歳が巡査を拝命していたころの沖縄県警も、今とそう変わりがあったようには思えない。
百歳は、
百歳は、孤独感に苛まれるようになっていくのである。
百歳は、「何となく、生きて居る事が慵くてやり切れないと云ふ感じを感ずるともなく、感じ」るのである。
このくだりは、警察学校を卒業し、配属されたばかりのおまわりさん(警察官)の心情がよく描けている。配属されたばかりのおまわりさん(警察官)の自殺理由を考える上で大きなヒントになるだろう。※この「何となく、生きて居る事が慵くてやり切れないと云ふ感じ」に、職業安定法違反の労働者の募集によって騙されたことの憤りを加えれば、おまわりさん(警察官)の自殺の理由が、より明瞭になることだろう。
そんなおり、
次の給料日に百歳は、カマルー小のいる廓へ行って、カマルー小に五円を渡す。そして、
もともとは、裕福な生活をしていたが、
百歳は、カマルー小に「強い愛着を感じ」るようになっていくのである。※警視庁のおまわりさん(警察官)に、キャバクラ譲に「強い愛着を感じ」、ストーカーしたあげく、射殺するという事件を起こしたおまわりさん(警察官)がいた。
翌月の給料日にも百歳は、カマルー小に貢ぐ。そして、
その時、
この墓地で、百歳は不審な男を見つけ、その男を捕まえる。
巡査部長の事情聴取を聞いているうちに、「初めて犯人を逮捕して来たと云ふ誇りで夢中」だった百歳の心境に変化があらわれる。
百歳は容疑者が、カマルー小の兄ではないかと思い始めたのである。
百歳は、「特殊部落」の人々の前で
この短編小説の最後の箇所で、私は、日本警察機動隊軍歌『この世を花にするために』の二番の
今も昔も、おまわりさん(警察官)の仕事に変わりはないようである。
奥間百歳(うくまぬひやあくう)の「恐怖と憤怒」は、道義的同情を欠いたニンゲンになってしまったおまわりさん(警察官)と、じつは、もうそのおまわりさん(警察官)に含まれてしまっている自分に対する感情ではないだろうか?
この感情が、それぞれのおまわりさん(警察官)の英知的性格に動機として働き、自殺する人、無念無想と言いながらただの機械となって生きるヒト、自殺行為としか思えない不祥事を起こすヒト、組織への復讐としか思えない不祥事を起こすヒト、完全に人格が崩壊し人間とは思えない犯罪を犯すヒトなどなどに分かれるだけなのではないだろうか?
池宮城積宝の『奥間巡査』という短編小説は、不可解な不祥事を起こし続けるおまわりさん(警察官)たちの心情を理解する上で、極めて有用な作品である。
大学や高校の先輩のリクルーター(警察官)に警察官に応募するように勧められている方は、
夏目漱石『文芸の哲学的基礎』、池宮城積宝『奥間巡査』、小林多喜二『山本巡査』、筒井康隆『無人警察』を読んでから、警察官に応募するかどうか決めるといいだろう。※『文芸の哲学的基礎』は小説ではありません。
小説はフィクションに過ぎないと、お思いの方は、原野翹『警察はなぜあるのか 行政機関と私たち』 (岩波書店、1989年)とウォルター・L.エイムズ著・後藤孝典訳 『日本警察の生態学』(勁草書房、1985年) を読んでから、警察官に応募するかどうか決めるといいだろう。
ま、おまわりさん(警察官)に応募する人は、読書なんかしないんだろうけど・・・
この短編は、「琉球の那覇市の街端れ」の「特種部落」出身の青年奥間百歳(うくまぬひやあくう)が巡査になるという話で、「大正△年の五月」前後から9月30日(「九月の二十七日」から「四日目」まで)までの物語で、わずか半年ほどの間に、「温順しかった」人間が「巡査としての職業的人間」へと変貌する様子が描かれている。
池宮城積宝は、「特殊部落」の生活について
軽蔑されて居ても、その日常生活は簡易で、共同的で、随って気楽である。と、ことさらに悲惨さを強調したりしていない。
この物語の主人公である百歳の本当の悲惨は、巡査になることによって始まるのである。
当初は、
父は彼に仕事を休んで勉強するやうに勧めた。彼の母は巫女《ユタ》を頼んで、彼方此方の拝所《ウガンジユ》へ詣って、百歳《ひやあくう》が試験に合格するやうにと祈った。百歳が愈々試験を受けに行くと云ふ前の日には、母は彼を先祖の墓に伴れて行って、長い祈願をした。と、百歳の父母は百歳が巡査になることに肯定的であった。
また、同じ「特殊部落」の人々も、
賎業に従事して居る彼等にとっては、官吏になると云ふ事は単なる歓びと云ふよりも、寧ろ驚異であった。と、百歳が巡査になることを、戸惑いながらも喜んでいた。
百歳は、「大正△年の五月」「奥間巡査は講習を終へると隔日勤務になった。」
そして、「二、三ケ月は」「平和に過ぎた。」かのようにみえたのだが、百歳の心には大きな変化があった。
今や彼の心の中には、巡査としての職務を立派に果すと云ふ事と、今の地位を踏台にして、更に向上しようと云ふ事の外に何物もなかった。
その上に彼はだんだん気難かしくなって来た。
彼の同僚が訪ねて来てからは一層、家の中を気にするやうになった。
彼が怒り出すと、どうしてあんなに温順しかった息子が斯うも変ったらうかと母は目を睜って、ハラハラし乍ら、彼が妹を叱るのを見て居た。と。
巡査講習所(今の警察学校)を出てから「二、三ケ月」もすると、家族は百歳の人間性が変わってしまっていることに気付き始めるのだった。※このブログ風にいえば、警察教養(学校教養と職場教養)で人格が変わってしまったことに家族が気づき始めたということである。
「部落」で祭礼があった日に百歳は、
われ〳〵官吏は『公平』と云ふ事を何よりも重んずる。随って、その人が自分の家族であらうと親類であらうと、苟も悪い事をした者を見逃すことは出来ない。と、巡査臭ぷんぷんの演説をしたりして、周囲の人々から敬遠され始める。
また、
時々、彼の同僚が訪ねて来ると、百歳はよく泡盛を出して振舞った。彼の家に遊びに来る同僚は可成り多かった。中には昼からやって来て、泡盛を飲んで騒ぐのが居た。どれもこれも逞しい若者で、話の仕方も乱暴だった。此の辺の人のやうに蛇皮線を弾いたり、琉球歌を歌ったりするのでなしに、茶腕や皿を叩いて、何やら訳の解らぬ鹿児島の歌を歌ったり、詩吟をしたり、いきなり立ち上って、棒を振り廻して剣舞をする者もあった。
おとなしい百歳の家族は、さう云ふ乱暴な遊び方をする客に対してはたヾ恐怖を感ずるばかりで、少しも親しめなかった。さうして、そんなお客と一緒に騒ぐ百歳を疎しく感ずるのであった。
家族ばかりか「部落」の人々も、
初めの中こそ百歳が巡査になった事を喜んだものの、彼の態度が以前とはガラリと違ったのを見ると不快に思った。
「部落」の人々は、百歳の家へ
屡々、外の巡査が出入するのを烟たがった。その巡査達は蹣けて帰り乍ら、裸かになって働いて居る部落の人を呶鳴り付けたりした。そんな事が度重なると、彼等は百歳の家の存在をさへ呪はしくなった。のである。
しまいには、
部落の人達はあまり彼の家に寄り付かなくなった。
さうなると彼は家に居ても始終焦々して居た。また途中で出逢った部落の人の眼の中に冷たさを感じると、自分の心の中に敵意の萠して来るのを覚えた。何となく除者にされた人の憤懣が、むら〳〵と起って来るのを、彼は如何ともする事が出来なかった。
かといって、
百歳は、警察組織にも受け入れてもらえないのである。
彼は此の部落の出身であるが為めに同僚に馬鹿にされて居ると感ずる事が度々あった。
彼は寂しかった。と云って、彼は同僚の中には、ほんとうの友情を見出すことは出来なかった。
彼の同僚は多くは鹿児島県人や佐賀県人や宮崎県人で、彼とは感情の上でも、これまでの生活環境でも大変な相違があったと。
作者が、「特殊部落」の人々の人間性と「巡査としての職業的人間」の人間性とを対比させるために、わざわざ「特殊部落」の青年が巡査になる設定にしているようだが・・・
現在の警察でも、同僚が拳銃自殺したときに口裏合わせして「拳銃の発射音は聞こえなかった」と証言できるヒトばかりなのだから、「特殊部落」の出身でなくても、「同僚の中には、ほんとうの友情を見出すことは出来」ないであろうことは容易に想像できるだろう。※兵庫県警には知人にしか公開していないブログで兵庫県警での職務や上司についての感想を書いた女性警察官が処分されている。
警察では、同僚は友人ではなく、密告者なのである。
百歳が巡査を拝命していたころの沖縄県警も、今とそう変わりがあったようには思えない。
百歳は、
さう云ふ人達とは一緒に、泡盛を飲んで騒ぐ事は出来ても、しみ〴〵と話し合ふ事は出来なかった。彼は署内で話をし乍らも、度々、同僚に対して、「彼等は異国人だ。」 と、さう心の中で呟く事があった。彼等もまた、彼を異邦人視して居るらしいのが感じられて来た。彼は孤独を感ぜずには居られなかった。
百歳は、孤独感に苛まれるようになっていくのである。
さう云ふ昼と夜とが続いて、百歳も草木の萎えたやうに、げんなり気を腐らせて居た。職務上の事でも神経を振ひ立たせ(る)程の事はなかった。何となく、生きて居る事が慵くてやり切れないと云ふ感じを感ずるともなく、感じて居た。と、
百歳は、「何となく、生きて居る事が慵くてやり切れないと云ふ感じを感ずるともなく、感じ」るのである。
このくだりは、警察学校を卒業し、配属されたばかりのおまわりさん(警察官)の心情がよく描けている。配属されたばかりのおまわりさん(警察官)の自殺理由を考える上で大きなヒントになるだろう。※この「何となく、生きて居る事が慵くてやり切れないと云ふ感じ」に、職業安定法違反の労働者の募集によって騙されたことの憤りを加えれば、おまわりさん(警察官)の自殺の理由が、より明瞭になることだろう。
そんなおり、
散歩の帰りがけに百歳はその友達に誘はれて、始めて「辻」と云ふ此の市の廓へ行った。
百歳は始めて女を買った。彼の敵娼に定ったのは、「カマルー小」と云って、未だ肩揚のとれない、十七位の、人形のやうに円いのっぺりした顔をした妓であった。何処となく子供らしい甘へるやうな言葉付が彼の心を惹いたのであった。現在とは、社会状況が異なるため、淫行にはならないが・・・、今も昔も、巡査は大人の女性より少女を好むようである。
次の給料日に百歳は、カマルー小のいる廓へ行って、カマルー小に五円を渡す。そして、
百歳は翌日、家に帰った時、母に俸給の残り十八円を渡して、後の五円は郵便貯金をしたと云った。さうして彼は母に、郵便貯金とは斯様々々のものであると云ふ事を可成り悉しく話した。母は黙って領いて居た。と。百歳は(今風に言うと)風俗に嵌り、給料をつぎ込むようになり、母親に嘘をつくようになる。
女の何処となしに強く彼を惹き付ける或物を感じた。それは女の、柔かい美しい肉体だか、善良な柔順な性格だか、或ひは女の住んで居る楼の快い、華やかな気分だか、彼には解らなかった。彼はたゞ、磁石のやうに女に惹き付けられる気持をだん〳〵判然、感じて来た。
もともとは、裕福な生活をしていたが、
家計の困難や、その負債の整理の為めに、彼女は今の境涯に落ちたと云ふ事であった。さう云ふ話をする時の彼女は、初めに見た時とは違って、何処となくしんみりした調子があったが、それが却って百歳に強い愛着を感じさせた。
百歳は、カマルー小に「強い愛着を感じ」るようになっていくのである。※警視庁のおまわりさん(警察官)に、キャバクラ譲に「強い愛着を感じ」、ストーカーしたあげく、射殺するという事件を起こしたおまわりさん(警察官)がいた。
翌月の給料日にも百歳は、カマルー小に貢ぐ。そして、
家へ帰ると、彼は母に、今月の俸給は、非常に困って居る同僚があったので、それに貸してやった。が、来月は屹度返して呉れるだらうと云った。さう云ふ時、彼は顔が熱って、自分の声が震へるのを感じた。母は不審さうな眼付で彼の顔を視て居たが、何にも云はなかった。と、母に平気で見え透いた嘘をつくのであった。
その月、九月の二十七日の午後から風が吹き出し、夜には暴風雨になった。
百歳はその晩、警察で制服を和服に着換へて女の楼に行った。
暴風雨は三日三晩続いた。彼は中の一日を欠勤して三晩、其処に居続けた。
その時、
百歳は、何とかして二人が同棲する方法はないものかと相談を持ち出したが、二十三円の俸給の外に何の収入もない彼には結局如何にもならないと云ふ事が解ったばかりであった。彼は金銭が欲しいと思った。一途に金銭が欲しいと思った。その時、彼には女の為めに罪を犯す男の気持が、よく解るやうに思はれた。自分だって若し今の場合、或る機会さへ与へられたら――さう思ふと彼は自分自身が恐ろしくなった。現代も、お金が欲しかったといって、窃盗や強盗をするおまわりさん(警察官)が後を絶たない。彼らの心情は、百歳が「自分自身が恐ろしくなった。」時の心情と同じものなのだろうか。
四日目に風雨が止んだので、彼は午頃女の楼を出て行ったが、自分の家へ帰る気もしなかったので、行くともなしに、ブラ〳〵とその郭の裏にある墓原へ行った。
この墓地で、百歳は不審な男を見つけ、その男を捕まえる。
彼は当途もなく、その墓原を歩いて居た。 所が、彼が、とある破風造りの開墓《あきはか》の前を横切らうとした時、その中で何か動いて居る物の影が彼の眼を掠めた。彼が中をよく覗いて見ると、それは一人の男であった。彼は突如《いきなり》、中へ飛び込んで行って男を引き擦り出して来た。その瞬間に、今までの蕩児らしい気分が跡方も無く消え去って、すっかり巡査としての職業的人間が彼を支配して居た。
彼はその男を引き擦るやうにして警察署に引張って行った。 彼はその男を逃すまいと云ふ熱心と、初めて犯人を逮捕して来たと云ふ誇りで夢中になって居た。まるで犬か何かのやうに其の男を審問室に押し込めると、彼は監督警部の所へ行って報告した。
彼の報告を聞くと監督警部は軽く笑って、 「ふむ、初陣の功名ぢゃな、御苦労だった。おい、渡辺部長。」 と、彼は一人の巡査部長を呼んで、その男を審問するやうにと命じた。
巡査部長の事情聴取を聞いているうちに、「初めて犯人を逮捕して来たと云ふ誇りで夢中」だった百歳の心境に変化があらわれる。
百歳は容疑者が、カマルー小の兄ではないかと思い始めたのである。
「旦那《だんな》さい、赦《ゆる》ちくゐみ、そーれー、さい。」 さう云って男は頭を床《ゆか》に擦《す》り付けた。 部長はそれを見ると勝ち誇ったやうに、笑声を上げた。 「奥間巡査、どうだ。正に君の睨んだ通りだ。立派な現行犯だよ。ハッハッハッ」
奥間巡査は極度の緊張を帯びた表情で、その男の顔を凝視めた。すると思ひ做しか男の顔が、彼の敵娼の、先刻別れたばかりのカマルー小の顔に似て居るやうに思はれた。
男は奥間巡査の予覚して居た通り、カマルー小の兄に違ひなかった。彼は此の男を捉《つかま》へて来たことを悔恨した。自分自身の行為を憤ふる気持で一杯になった。先刻、此の男を引張って来た時の誇らしげな自分が呪はしくなった。その時、部長は彼の方を向いて云った。 「おい、奥間巡査、その妹を参考人として訊問の必要があるから、君、その楼《うち》へ行って同行して来給へ。」 それを聞くと、奥間巡査は全身の血液が頭に上って行くのを感じた。彼は暫時の間、茫然として、部長の顔を凝視《みつ》めて居た。やがて、彼の眼には陥穽《かんせい》に陥《お》ちた野獣の恐怖と憤怒《ふんど》が燃えた。
百歳は、「特殊部落」の人々の前で
われ〳〵官吏は『公平』と云ふ事を何よりも重んずる。随って、その人が自分の家族であらうと親類であらうと、苟も悪い事をした者を見逃すことは出来ない。と巡査臭ぷんぷんに述べていたが、窃盗の容疑者が、カマルー小の兄だと確信した瞬間に、
彼の眼には陥穽に陥ちた野獣の恐怖と憤怒が燃えた。のである。
この短編小説の最後の箇所で、私は、日本警察機動隊軍歌『この世を花にするために』の二番の
恋も情も人間らしく しても見たいさ 掛けたいが それすら自由になりはせぬ この世を花にするために 鬼にもなろうさ機動隊という歌詞を思い出した。
今も昔も、おまわりさん(警察官)の仕事に変わりはないようである。
奥間百歳(うくまぬひやあくう)の「恐怖と憤怒」は、道義的同情を欠いたニンゲンになってしまったおまわりさん(警察官)と、じつは、もうそのおまわりさん(警察官)に含まれてしまっている自分に対する感情ではないだろうか?
この感情が、それぞれのおまわりさん(警察官)の英知的性格に動機として働き、自殺する人、無念無想と言いながらただの機械となって生きるヒト、自殺行為としか思えない不祥事を起こすヒト、組織への復讐としか思えない不祥事を起こすヒト、完全に人格が崩壊し人間とは思えない犯罪を犯すヒトなどなどに分かれるだけなのではないだろうか?
池宮城積宝の『奥間巡査』という短編小説は、不可解な不祥事を起こし続けるおまわりさん(警察官)たちの心情を理解する上で、極めて有用な作品である。
大学や高校の先輩のリクルーター(警察官)に警察官に応募するように勧められている方は、
夏目漱石『文芸の哲学的基礎』、池宮城積宝『奥間巡査』、小林多喜二『山本巡査』、筒井康隆『無人警察』を読んでから、警察官に応募するかどうか決めるといいだろう。※『文芸の哲学的基礎』は小説ではありません。
小説はフィクションに過ぎないと、お思いの方は、原野翹『警察はなぜあるのか 行政機関と私たち』 (岩波書店、1989年)とウォルター・L.エイムズ著・後藤孝典訳 『日本警察の生態学』(勁草書房、1985年) を読んでから、警察官に応募するかどうか決めるといいだろう。
ま、おまわりさん(警察官)に応募する人は、読書なんかしないんだろうけど・・・
「警察の裏金問題」を指摘した嚆矢は、夏目漱石『永日小品』である。 [「無人警察」ほか]
このブログの
「警察の裏金問題」を指摘した嚆矢は、夏目漱石の『永日小品』である。
漱石は、一九〇九年(明治四十二)の『永日小品』(一月から 三月に『朝日新聞』に掲載)で、警視庁の機密費について
漱石は、警視庁の機密費が本来の目的以外で使用されていることを指摘しているのである。
これは、現在の用語でいえば「警視庁の裏金」ということになる。
漱石は、100年以上も前に、警察の裏金の存在を公にしていたのである。
漱石の「探偵」批判は、「探偵」を「警察」の比喩として使って、警察を批判していると考えるべきだろう。
2.漱石の暗い部分 ― 心理分析の前に [第二章 漱石の文明批判と未来予測]ですでに書いたが、
「警察の裏金問題」を指摘した嚆矢は、夏目漱石の『永日小品』である。
漱石は、一九〇九年(明治四十二)の『永日小品』(一月から 三月に『朝日新聞』に掲載)で、警視庁の機密費について
捉まえると刑事の方が損になるものだそうだ。泥棒を電車に乗せると電車賃が損になる。裁判に出ると、弁当代が損になる。機密費は警視庁が半分取ってしまうのだそうだ。余りを各警察へ割りふるのだそうだ。と記している。
漱石は、警視庁の機密費が本来の目的以外で使用されていることを指摘しているのである。
これは、現在の用語でいえば「警視庁の裏金」ということになる。
漱石は、100年以上も前に、警察の裏金の存在を公にしていたのである。
漱石の「探偵」批判は、「探偵」を「警察」の比喩として使って、警察を批判していると考えるべきだろう。
小泉八雲の『怪談(Kaidan)』の中で、最も恐ろしいのは、 「蟻(ANTS)」である。「蟻(ANTS)」は、「警察の怪談」といって良いだろう。 [「無人警察」ほか]
小泉八雲の『怪談(Kaidan)』の中で、
最も恐ろしいのは、
「蟻(ANTS)」である。
穂積陳重の『法律進化論』の「法律進化の原力」を欠いた社会進化の行く末を描いているようで、恐ろしい。
猫党読みすれば、
人間の「蟻(ANTS)」への進化は、このブログでいう、探偵化(国民皆警察化)のことである。
※
穂積陳重は『法律進化論』で「社會の基源」をショーペンハウアーの「性愛の形而上学」で基礎づけ、「法律進化の原力」をキリスト教における「黄金律」(Golden rule)とした。ショーペンハウアーは儒教の同情(仁)と「黄金律」を同情(Mitleid)としている。
つまり、穂積陳重の『法律進化論』の「法律進化の原力」は、同情(Mitleid)と同じものといえる。
穂積の「法律進化論」における「刑法の進化」(復讐→刑罰→正義→仁愛と復讐が仁愛へと展開)とショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』第四巻の刑法論(復讐→刑罰→正義→同情(Mitleid)すなわち仁愛へと至る経路を論じている)は一致している。
穂積の『法律進化論』では「刑法」は進化を促進するものと位置付けられている。
穂積は、監獄学の専門家として小河滋次郎、警察学の専門家として松井茂を官界に送り込んでおり、『法律進化論』の社会実験を試みたと思われる。
小河滋次郎が同情(仁)を重視したのに対し、松井茂は「同情」を共感の意味で使い、国民皆警察を目指した。
つまり、松井茂が同情(仁)を「同情」(共感)としたことで、日本は穂積陳重の法律進化論が想定した社会進化とは異なる進化(退化?)をしたことになる。
この社会進化の極致を小泉八雲の『怪談(Kaidan)』の「蟻(ANTS)」が見事に描写している。
スペンサーの社会進化論とヘーゲルの絶対精神とニーチェの意志の肯定の思想が融合したようなリバイアサンの降霊術を見るようである。
この悪魔(リバイアサン)が、日本を敗戦に導いた警察精神(=日本精神)である。
漱石が批判した国家主義、
漱石が観た国家主義の行く末は、
「蟻(ANTS)」の世界だったのかもしれない。
「蟻(ANTS)」を猫党読みして感じる恐ろしさは、
現在も国民皆警察化(探偵化)が継続しており、
そのことに気づく日本人が皆無(犬党ばかり)であるというところからくるに違いない。
「蟻(ANTS)」は、「警察の怪談」といって良いだろう。
このブログの
「『保管室で発砲音、警官が自分の拳銃の弾で重傷』?? 本当は『瀬戸署で警官が発砲 頭部貫通で重体』!!愛知県警瀬戸署発表『重症』瀬戸市消防本部発表『重体』ということか??」で、
と述べたが、
日本人が過労死するまで働き続けるのは、「蟻(ANTS)」の世界に着々と近づいている証拠だろう。
残業文化は「蟻(ANTS)」文化といって良いだろう。
蟻には、文化も道義的同情もないのだが・・・
※警察教養の職務倫理教養は松井茂の同情(道義的同情ではなく共感)の伝統を受け継いでいると思われる。それは、不祥事(犯罪を含む)を起こした警察官が相手が苦しむことを知って(共感して)いながら、あえて、相手を苦しめたと供述することからも明らかである。一方、監獄(刑務所)では、「執行ボタンと言われているスイッチの押しボタンは3つあり、3人の刑務官が指名される。通電されているのは1つだが、事実上の殺人ボタンを押したという精神的苦痛を3分の1に軽減しようとする配慮らしい。」(元ベテラン刑務官が明かす「死刑囚たちの知られざる日常」『日刊大衆』2014年6月5日)といわれており、小河滋次郎の同情(仁)の伝統がわずかに残っているようである。倫理が道義的同情で基礎づけられていると考えるか、時と場合によっては道義的同情を無視してもよいと教えるために倫理に道義的同情による基礎づけは不要と考えるかの違いが、大きい。
刑務官の執行ボタンの事例は、警務官が道義的同情を感じることで感じる罪業感を軽減する目的があると思われる。つまり、刑務官の倫理観の根には道義的同情が想定されている。道義的同情とは相手の苦しみを自分のものと感じ相手が苦しむことをしないということである。「土人」「シナ人」などと罵倒する警察官の心には、このような意味での道義的同情はない。その警察官を頑張ったとほめる犬党のヒトビトは、警察官に道義的同情ではなく同情(共感)を求めている人でなしということになる。犬党にあるのは「土人」と言ったら傷つくと知りながら、効果的に相手を傷つけることができるという、警備警察的発想(からかい殺す)である。この発想を支えているのが同情(共感)である。これは、安倍自民党、日本維新の会、KYといって喜んでいたバカみたいな党などの政治家の心にあるものと一緒だ。同情(共感)というのは、相手が苦しむことを知って(共感して)いながら、あえて、相手を苦しめることもできるのである。このことが、警察教養(学校教養と職場教養)で、いくら職務倫理教養しても、いや、職務倫理教養をすればするほど、警察官が奇怪な不祥事を起こす原因である。
※小泉八雲が「蟻(ANTS)」で、蟻のような社会を良しとしたのか、どうかは判然としないが、「死骸に乗る者」で小泉八雲が「この話の結末は、道義的に言って、どうも満足なものとは思えない。」と述べていることから、彼が怪談に道義的なものを求めていることがわかる。また彼は、松江で結婚して間もなくの節子夫人から「鳥取の蒲団のはなし」を聞いたころからから、日本の幽霊話を創作の素材にし始めたそうだが、「鳥取の蒲団のはなし」は、通常に読めば、道義的同情を感じる内容となっている。そもそも、「四谷怪談」「お菊井戸」など怪談に登場する幽霊(幻視)は罪業感(道義的同情を欠いた行為による精神異常か?)から見るものが多い。小泉八雲が日本の幽霊話に興味を持ったのは、道義的同情を表現するためであったのではないだろうか?何の因縁か、そのハーンが亡くなった1904年に、漱石は『我輩は猫である』を書き始め、日本警察(松井茂の後に国民皆警察運動となる社会教化運動、探偵化)を批判したのである。
最も恐ろしいのは、
「蟻(ANTS)」である。
穂積陳重の『法律進化論』の「法律進化の原力」を欠いた社会進化の行く末を描いているようで、恐ろしい。
猫党読みすれば、
人間の「蟻(ANTS)」への進化は、このブログでいう、探偵化(国民皆警察化)のことである。
※
穂積陳重は『法律進化論』で「社會の基源」をショーペンハウアーの「性愛の形而上学」で基礎づけ、「法律進化の原力」をキリスト教における「黄金律」(Golden rule)とした。ショーペンハウアーは儒教の同情(仁)と「黄金律」を同情(Mitleid)としている。
つまり、穂積陳重の『法律進化論』の「法律進化の原力」は、同情(Mitleid)と同じものといえる。
穂積の「法律進化論」における「刑法の進化」(復讐→刑罰→正義→仁愛と復讐が仁愛へと展開)とショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』第四巻の刑法論(復讐→刑罰→正義→同情(Mitleid)すなわち仁愛へと至る経路を論じている)は一致している。
穂積の『法律進化論』では「刑法」は進化を促進するものと位置付けられている。
穂積は、監獄学の専門家として小河滋次郎、警察学の専門家として松井茂を官界に送り込んでおり、『法律進化論』の社会実験を試みたと思われる。
小河滋次郎が同情(仁)を重視したのに対し、松井茂は「同情」を共感の意味で使い、国民皆警察を目指した。
つまり、松井茂が同情(仁)を「同情」(共感)としたことで、日本は穂積陳重の法律進化論が想定した社会進化とは異なる進化(退化?)をしたことになる。
この社会進化の極致を小泉八雲の『怪談(Kaidan)』の「蟻(ANTS)」が見事に描写している。
スペンサーの社会進化論とヘーゲルの絶対精神とニーチェの意志の肯定の思想が融合したようなリバイアサンの降霊術を見るようである。
この悪魔(リバイアサン)が、日本を敗戦に導いた警察精神(=日本精神)である。
漱石が批判した国家主義、
漱石が観た国家主義の行く末は、
「蟻(ANTS)」の世界だったのかもしれない。
「蟻(ANTS)」を猫党読みして感じる恐ろしさは、
現在も国民皆警察化(探偵化)が継続しており、
そのことに気づく日本人が皆無(犬党ばかり)であるというところからくるに違いない。
「蟻(ANTS)」は、「警察の怪談」といって良いだろう。
このブログの
「『保管室で発砲音、警官が自分の拳銃の弾で重傷』?? 本当は『瀬戸署で警官が発砲 頭部貫通で重体』!!愛知県警瀬戸署発表『重症』瀬戸市消防本部発表『重体』ということか??」で、
※警察教養は、漱石の親友中村是公の親友松井茂の親友の呉周三の弟子の森田正馬が1919年(大正8年)に始めた森田療法にそっくりらしい。ある精神科医は、その著書で企業研修(人格改造を伴わない初任研修を除く)が森田療法にそっくりだと指摘している。森田療法と同様の企業研修で精神疾患を発症する例があるらしい。警察官の不祥事や自殺は、その線で研究すべきだろう。ネット上に「『なぜ日本人は過労死するほど働くのか』 海外には異質に映る残業文化」http://www.mag2.com/p/news/215642 という記事があったが。何の不思議もない。科学的にも当然の結果である。日本人が死ぬまで働くのは、森田療法と同様の手法(警察教養・企業研修)で洗脳されている(探偵化されている)からだ。日本は、洗脳による奴隷制国家だ。漱石が批判した国家主義というのは、今現在の国家(※警察化は現在も進行中)のことだ。
※奴隷制国家というのは、未払い賃金が全額清算されることのない無賃労働が法律的に認められている国家という意味である。労働犯罪の容疑者たちに未払い賃金を全額清算させることのない労働審判や労働裁判は、奴隷の烙印を押す手続きである。被害者は訴えることで、法的に奴隷認定されることになっている。公共職業安定所はヒューマンショップで、裁判所は奴隷烙印押印所だ。
と述べたが、
日本人が過労死するまで働き続けるのは、「蟻(ANTS)」の世界に着々と近づいている証拠だろう。
残業文化は「蟻(ANTS)」文化といって良いだろう。
蟻には、文化も道義的同情もないのだが・・・
※警察教養の職務倫理教養は松井茂の同情(道義的同情ではなく共感)の伝統を受け継いでいると思われる。それは、不祥事(犯罪を含む)を起こした警察官が相手が苦しむことを知って(共感して)いながら、あえて、相手を苦しめたと供述することからも明らかである。一方、監獄(刑務所)では、「執行ボタンと言われているスイッチの押しボタンは3つあり、3人の刑務官が指名される。通電されているのは1つだが、事実上の殺人ボタンを押したという精神的苦痛を3分の1に軽減しようとする配慮らしい。」(元ベテラン刑務官が明かす「死刑囚たちの知られざる日常」『日刊大衆』2014年6月5日)といわれており、小河滋次郎の同情(仁)の伝統がわずかに残っているようである。倫理が道義的同情で基礎づけられていると考えるか、時と場合によっては道義的同情を無視してもよいと教えるために倫理に道義的同情による基礎づけは不要と考えるかの違いが、大きい。
刑務官の執行ボタンの事例は、警務官が道義的同情を感じることで感じる罪業感を軽減する目的があると思われる。つまり、刑務官の倫理観の根には道義的同情が想定されている。道義的同情とは相手の苦しみを自分のものと感じ相手が苦しむことをしないということである。「土人」「シナ人」などと罵倒する警察官の心には、このような意味での道義的同情はない。その警察官を頑張ったとほめる犬党のヒトビトは、警察官に道義的同情ではなく同情(共感)を求めている人でなしということになる。犬党にあるのは「土人」と言ったら傷つくと知りながら、効果的に相手を傷つけることができるという、警備警察的発想(からかい殺す)である。この発想を支えているのが同情(共感)である。これは、安倍自民党、日本維新の会、KYといって喜んでいたバカみたいな党などの政治家の心にあるものと一緒だ。同情(共感)というのは、相手が苦しむことを知って(共感して)いながら、あえて、相手を苦しめることもできるのである。このことが、警察教養(学校教養と職場教養)で、いくら職務倫理教養しても、いや、職務倫理教養をすればするほど、警察官が奇怪な不祥事を起こす原因である。
※小泉八雲が「蟻(ANTS)」で、蟻のような社会を良しとしたのか、どうかは判然としないが、「死骸に乗る者」で小泉八雲が「この話の結末は、道義的に言って、どうも満足なものとは思えない。」と述べていることから、彼が怪談に道義的なものを求めていることがわかる。また彼は、松江で結婚して間もなくの節子夫人から「鳥取の蒲団のはなし」を聞いたころからから、日本の幽霊話を創作の素材にし始めたそうだが、「鳥取の蒲団のはなし」は、通常に読めば、道義的同情を感じる内容となっている。そもそも、「四谷怪談」「お菊井戸」など怪談に登場する幽霊(幻視)は罪業感(道義的同情を欠いた行為による精神異常か?)から見るものが多い。小泉八雲が日本の幽霊話に興味を持ったのは、道義的同情を表現するためであったのではないだろうか?何の因縁か、そのハーンが亡くなった1904年に、漱石は『我輩は猫である』を書き始め、日本警察(松井茂の後に国民皆警察運動となる社会教化運動、探偵化)を批判したのである。
「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」?? 筒井康隆は「テロ等準備罪」を皮肉るつもりで、ツイートしたのではないだろうか? [「無人警察」ほか]
2017年4月7日の『J-CASTニュース』のニュースサイトに「筒井康隆氏、慰安婦像めぐる衝撃ツイートの波紋 『あの少女は可愛いから...』」という記事があった。
その記事には、
「信じられない」VS「元々あんな人」
なんとなく、見当違いの議論のような気がする。
確かに、
文面をそのまま解せば、
筒井康隆が犬党員に犯罪行為を呼び掛けているとしか、
理解できない。
しかし、
『無人警察』を書いた筒井康隆が、
この時期に、
犬党に犯罪行為を呼び掛けたのである。
この呼びかけには、他の意味があるのではないだろうか。
「テロ等準備罪」が衆院審議入りしたこの時期に、
犬党員の多くが内心同意してしまうであろう犯罪行為を、
筒井康隆(恐らく?)が、
本人のツイッターアカウントから直接呼びかけたのである。
この筒井康隆の犯罪行為の呼びかけ
「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」
に内心同意した犬党員は、
「テロ等準備罪」が施行されていれば、
いの一番に、
検挙されなければならないヒトたちである。
だが、犬党員ばかりの日本では、
仮に「テロ等準備罪」が施行されていても、
犯罪行為を呼び掛けた筒井康隆も、
筒井康隆の犯罪の呼びかけに、
内心同意した犬党員も、
逮捕・検挙されることはないだろう。
そこに、「テロ等準備罪」の性質が如実にあらわれている。
筒井康隆は「テロ等準備罪」を皮肉るつもりで、
ツイートしたのではないだろうか?
「テロ等準備罪」が成立し施行された場合、これまでの主義主張とは関係なく、犬党員が賛同しそうな犯罪行為を呼びかける著名人が増えるのではないだろうか?犬党員よりも極端な主張をすることで犬党の社会の滑稽さを表現しようとする者がでてくるのではないだろうか?犬党員が絶滅するような未来があるのだとすれば、筒井康隆のこの非常識なツイートが「テロ等準備罪」などで言論の自由が制限された暗い時代の社会風刺の形を先取りするものだったと、再評価される日が来るかもしれない。
その記事には、
従軍慰安婦を象徴する「少女像」が韓国・釜山の日本総領事館前に設置されたことへの対抗措置として一時帰国していた長嶺安政・駐韓大使が、韓国へ帰任した。 これを踏まえ、小説家の筒井康隆さん(82)が「みんなで慰安婦像に射精しよう」などと公式サイトで「提案」したことが、物議を醸している。韓国メディアもこぞって、「衝撃的な妄言」と非難している。と書いてあった。
「信じられない」VS「元々あんな人」
筒井さんは、自身の公式サイト「笑犬楼大通り」内の日記「偽文士日碌」の4月4日付け記事に、 「長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」 と記した。 ちょうど同日夜、韓国政府に像の撤去を働きかけるため、長嶺氏は85日ぶりに韓国へ帰任。「長嶺大使がまた韓国へ行く」とは、それをうけての表現とみられる。 これが6日昼ごろ、本人のツイッターアカウントから直接投稿されると、 「本気で言っていることですか」 「信じられない」 「がっかり」「下品」「非常識」 との批判が噴出。一方で、 「あれで平常運転」 「元々あんな人」 「筒井康隆さんらしい発言だね」 といった反応も寄せられ、にわかに議論が白熱した。のだそうだ。
なんとなく、見当違いの議論のような気がする。
確かに、
文面をそのまま解せば、
筒井康隆が犬党員に犯罪行為を呼び掛けているとしか、
理解できない。
しかし、
『無人警察』を書いた筒井康隆が、
この時期に、
犬党に犯罪行為を呼び掛けたのである。
この呼びかけには、他の意味があるのではないだろうか。
「テロ等準備罪」が衆院審議入りしたこの時期に、
犬党員の多くが内心同意してしまうであろう犯罪行為を、
筒井康隆(恐らく?)が、
本人のツイッターアカウントから直接呼びかけたのである。
この筒井康隆の犯罪行為の呼びかけ
「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」
に内心同意した犬党員は、
「テロ等準備罪」が施行されていれば、
いの一番に、
検挙されなければならないヒトたちである。
だが、犬党員ばかりの日本では、
仮に「テロ等準備罪」が施行されていても、
犯罪行為を呼び掛けた筒井康隆も、
筒井康隆の犯罪の呼びかけに、
内心同意した犬党員も、
逮捕・検挙されることはないだろう。
そこに、「テロ等準備罪」の性質が如実にあらわれている。
筒井康隆は「テロ等準備罪」を皮肉るつもりで、
ツイートしたのではないだろうか?
「テロ等準備罪」が成立し施行された場合、これまでの主義主張とは関係なく、犬党員が賛同しそうな犯罪行為を呼びかける著名人が増えるのではないだろうか?犬党員よりも極端な主張をすることで犬党の社会の滑稽さを表現しようとする者がでてくるのではないだろうか?犬党員が絶滅するような未来があるのだとすれば、筒井康隆のこの非常識なツイートが「テロ等準備罪」などで言論の自由が制限された暗い時代の社会風刺の形を先取りするものだったと、再評価される日が来るかもしれない。
探偵(おまわりさん〔警察官〕)に「文芸の道徳的基礎」がないというのは、「…」といったことが顕著な職業だからであろうか? [「無人警察」ほか]
以下の文章は、突然閉鎖された「博士の愛した株式」というブログに掲載されていた記事である。
最近、夏目漱石の「道楽と職業」―明治四十四年八月明石において述―を読んだ。 漱石が言う探偵(おまわりさん〔警察官〕)に「文芸の道徳的基礎」がないというのは、「…」といったことが顕著な職業だからであろうか? [夏目漱石(警察官は人間失格)]
最近、夏目漱石の「道楽と職業」―明治四十四年八月明石において述―(http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/757_14957.html に全文あり)を読んだ。メモ代わりにブログに書いておくことにした。
漱石は、道楽について以下のように言っていた。
「どうしても他人本位では成立たない職業があります。それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做(みな)すよりほかに仕方がないのです。」
「すべての芸術家科学者哲学者はみなそうだろうと思う。彼らは一も二もなく道楽本位に生活する人間だからである。」
「道楽と云いますと、悪い意味に取るとお酒を飲んだり、または何か花柳社会へ入ったりする、俗に道楽息子と云いますね、ああいう息子のする仕業(しわ ざ)、それを形容して道楽という。けれども私のここで云う道楽は、そんな狭い意味で使うのではない、もう少し広く応用の利(き)く道楽である。善(よ)い 意味、善い意味の道楽という字が使えるか使えないか、それは知りませぬが、だんだん話して行く中(うち)に分るだろうと思う。もし使えなかったら悪い意味 にすればそれでよいのであります。」
「科学者哲学者もしくは芸術家の類(たぐい)が職業として優(ゆう)に存在し得るかは疑問として、これは自己本位でなければとうてい成功しないことだけは 明かなようであります。なぜなればこれらが人のためにすると己というものは無くなってしまうからであります。ことに芸術家で己の無い芸術家は蝉(せみ)の 脱殻(ぬけがら)同然で、ほとんど役に立たない。自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神が籠(こも)るは ずがない。すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。」
「芸術家とか学者とかいうものは、この点においてわがままのものであるが、そのわがままなために彼らの道において成功する。他の言葉で云うと、彼らにとっ ては道楽すなわち本職なのである。彼らは自分の好きな時、自分の好きなものでなければ、書きもしなければ拵(こしら)えもしない。至って横着(おうちゃ く)な道楽者であるがすでに性質上道楽本位の職業をしているのだからやむをえないのです。そういう人をして己を捨てなければ立ち行かぬように強(し)いた りまたは否応(いやおう)なしに天然を枉(ま)げさせたりするのは、まずその人を殺すと同じ結果に陥(おちい)るのです。」
「道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、その道楽が職業と変化する刹那(せつな)に今まで自己にあった権威 が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのはやむをえない。打ち明けた御話が己のためにすればこそ好なので人のためにしなければならない義務を 括(くく)りつけられればどうしたって面白くは行かないにきまっています。元来己を捨てるということは、道徳から云えばやむをえず不徳も犯そうし、知識か ら云えば己の程度を下げて無知な事も云おうし、人情から云えば己の義理を低くして阿漕(あこぎ)な仕打もしようし、趣味から云えば己の芸術眼を下げて下劣 な好尚に投じようし、十中八九の場合悪い方に傾きやすいから困るのである。例えば新聞を拵(こしら)えてみても、あまり下品な事は書かない方がよいと思い ながら、すでに商売であれば販売の形勢から考え営業の成立するくらいには俗衆の御機嫌(ごきげん)を取らなければ立ち行かない。要するに職業と名のつく以 上は趣味でも徳義でも知識でもすべて一般社会が本尊になって自分はこの本尊の鼻息を伺って生活するのが自然の理である。」
※漱石が言う探偵(お まわりさん〔警察官〕)に「文芸の道徳的基礎」がないというのは、「元来己を捨てるということは、道徳から云えばやむをえず不徳も犯そうし、知識から云えば己の程度を下げて無知な事も云おうし、人情から云えば己の義理を低くして阿漕(あこぎ)な仕打もしようし、趣味から云えば己の芸術眼を下げて下劣な好尚に投じようし、十中八九の場合悪い方に傾きやすいから困るのである。」といったことが顕著な職業だからであろうか?
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最近、夏目漱石の「道楽と職業」―明治四十四年八月明石において述―を読んだ。 漱石が言う探偵(おまわりさん〔警察官〕)に「文芸の道徳的基礎」がないというのは、「…」といったことが顕著な職業だからであろうか? [夏目漱石(警察官は人間失格)]
最近、夏目漱石の「道楽と職業」―明治四十四年八月明石において述―(http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/757_14957.html に全文あり)を読んだ。メモ代わりにブログに書いておくことにした。
漱石は、道楽について以下のように言っていた。
「どうしても他人本位では成立たない職業があります。それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做(みな)すよりほかに仕方がないのです。」
「すべての芸術家科学者哲学者はみなそうだろうと思う。彼らは一も二もなく道楽本位に生活する人間だからである。」
「道楽と云いますと、悪い意味に取るとお酒を飲んだり、または何か花柳社会へ入ったりする、俗に道楽息子と云いますね、ああいう息子のする仕業(しわ ざ)、それを形容して道楽という。けれども私のここで云う道楽は、そんな狭い意味で使うのではない、もう少し広く応用の利(き)く道楽である。善(よ)い 意味、善い意味の道楽という字が使えるか使えないか、それは知りませぬが、だんだん話して行く中(うち)に分るだろうと思う。もし使えなかったら悪い意味 にすればそれでよいのであります。」
「科学者哲学者もしくは芸術家の類(たぐい)が職業として優(ゆう)に存在し得るかは疑問として、これは自己本位でなければとうてい成功しないことだけは 明かなようであります。なぜなればこれらが人のためにすると己というものは無くなってしまうからであります。ことに芸術家で己の無い芸術家は蝉(せみ)の 脱殻(ぬけがら)同然で、ほとんど役に立たない。自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神が籠(こも)るは ずがない。すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。」
「芸術家とか学者とかいうものは、この点においてわがままのものであるが、そのわがままなために彼らの道において成功する。他の言葉で云うと、彼らにとっ ては道楽すなわち本職なのである。彼らは自分の好きな時、自分の好きなものでなければ、書きもしなければ拵(こしら)えもしない。至って横着(おうちゃ く)な道楽者であるがすでに性質上道楽本位の職業をしているのだからやむをえないのです。そういう人をして己を捨てなければ立ち行かぬように強(し)いた りまたは否応(いやおう)なしに天然を枉(ま)げさせたりするのは、まずその人を殺すと同じ結果に陥(おちい)るのです。」
「道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、その道楽が職業と変化する刹那(せつな)に今まで自己にあった権威 が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのはやむをえない。打ち明けた御話が己のためにすればこそ好なので人のためにしなければならない義務を 括(くく)りつけられればどうしたって面白くは行かないにきまっています。元来己を捨てるということは、道徳から云えばやむをえず不徳も犯そうし、知識か ら云えば己の程度を下げて無知な事も云おうし、人情から云えば己の義理を低くして阿漕(あこぎ)な仕打もしようし、趣味から云えば己の芸術眼を下げて下劣 な好尚に投じようし、十中八九の場合悪い方に傾きやすいから困るのである。例えば新聞を拵(こしら)えてみても、あまり下品な事は書かない方がよいと思い ながら、すでに商売であれば販売の形勢から考え営業の成立するくらいには俗衆の御機嫌(ごきげん)を取らなければ立ち行かない。要するに職業と名のつく以 上は趣味でも徳義でも知識でもすべて一般社会が本尊になって自分はこの本尊の鼻息を伺って生活するのが自然の理である。」
※漱石が言う探偵(お まわりさん〔警察官〕)に「文芸の道徳的基礎」がないというのは、「元来己を捨てるということは、道徳から云えばやむをえず不徳も犯そうし、知識から云えば己の程度を下げて無知な事も云おうし、人情から云えば己の義理を低くして阿漕(あこぎ)な仕打もしようし、趣味から云えば己の芸術眼を下げて下劣な好尚に投じようし、十中八九の場合悪い方に傾きやすいから困るのである。」といったことが顕著な職業だからであろうか?
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[再掲]『七瀬ふたたび』の警察官の描写は、秀逸である。小説が映像化される時、消えた描写。その陰にはポリッアイ・ガイストが・・・ [「無人警察」ほか]
さすが、『無人警察』の筒井康隆だけあって、『七瀬ふたたび』の警察官の描写は、秀逸である。
「警官たちがあらわれて、銃口を七瀬に擬したままゆっくりと近づいてきた。眼をなかば閉じた無表情な顔をし、まるで機械人間のようにぎこちない歩きかたで、彼らは徐々に七瀬の方へやってきた。こんなに大勢の警官がどこから、と思うほどの人数だった。彼らはたしかにへンリーの形容した死霊《ゾンビー》に似て、自らの意志を持たず、ただ命令されたままに動いていた。ではあの殺人者たちは、墓場から死者を蘇らせ、自らの命じるままに行動させる術を知っていたのだろうか、と、一瞬七瀬が思ったほど、彼ら警官たちは不気味で、死の匂いをあたりへ発散させていた。」
「警宮たちは強力な催眠術をかけられ、自らの思考力と行動力を奪われてしまっていた。意識は持っているものの、その自我の大部分の機能は停正させられていて、その為にこそ七瀬には彼ら自身の思考を微弱にしか感じ取れなかったのである。」
筒井康隆が描く催眠術で操られる警察官は、まさに、心理学的監督やイメージによって、操作されている現実の警察官そのものである。
筒井康隆の『七瀬ふたたび』には、警察の良いイメージを破壊する鋭い描写があるが、小説が映像化される時、不思議なことに、その描写が消える。
1979年のNHK少年ドラマシリーズ版『七瀬ふたたび』では、ノリオやヘンリーは警官隊ではなくショッカーのような黒服軍団に射殺される。七瀬については、撃たれたかどうかは、判断できなかった。
2008年のNHKドラマ8版『七瀬ふたたび』では、ヘンリーが警察官に射殺された場面は確認できたが、七瀬がダレに撃たれたかは確認できなかった。また、原作には七瀬に味方する刑事などいなかったように思うが、このドラマには七瀬に味方する高村刑事がいた。
2010年の映画版『七瀬ふたたび』では、迷彩服の集団が登場するが、警官隊かどうかはざっと見ただけではわからなかった。また、2008年のNHKドラマ8版『七瀬ふたたび』同様、七瀬たちに味方する山木刑事がいた。
なぜ、原作の見事な警察の描写を映像化しないのだろうか?
犬党のヒトビトは、全く気にしないと思うが…
超能力のような何か見えない力が加えられて、警察の描写が変えられているように思える。
北朝鮮や中国の国民で言論統制されていないと思っているのは、幼児や知的レベルの低いヒトたちだけだろうが・・・
日本国民は、警察に関する言論統制の存在に全く気付くことがない。
言論統制は、あからさまにわからないのが、本当の言論統制であり、この言論統制を可能にしているのは、日本型の全体主義(警察主義とも呼ぶべき国家主義)である。
いや、日本人に憑依した「ポリツァイ・ガイスト」の仕業である。
このポリッアイ・ガイストは、夏目漱石が批判した戦前の代表的警察官僚松井茂が鼓吹した「警察精神」と同じものである。
「警察精神」、それは、国民皆警察化によって、「自らの思考力と行動力を奪われてしまって」、「意識は持っているものの、その自我の大部分の機能は停正させられ」、「死霊《ゾンビー》に似て、自らの意志を持たず、ただ命令されたままに動いて」、「無表情な顔をし、まるで機械人間」のような状態にされた人間の精神である。
現在は、警察研究がタブーであるから、警察内で起こる数々の怪奇現象は、真怪である。
だがもし、この真怪であるポリッアイ・ガイスト(警察の霊)現象が、科学的に検証されれば、ポリッアイ・ガイスト(警察の霊)が松井茂が暗示や模倣を駆使して作り出した警察化したニンゲンの精神であることが明らかになるはずである。
警察研究がすすめば、警察内で起こる数々の怪奇現象が、人間の精神の一部に偏った働きによって、引き起こされる数々の道義的同情を欠いた行為によって引き起こされた現象であることが明らかになり、その人間の精神の一部に偏った働きのことを、ポリツァイ・ガイスト【Polizeigeist:Polizei(警察)とGeist(精神)】と呼ぶべき概念であることを知るはずである。
つまり、ポリッアイ・ガイスト(警察の霊)が、引き起こす数々の怪奇現象、真怪の原因が、じつは、「警察精神」(Polizeigeist)であることが明らかになるはずである。
「④警察の霊 ポリツァイガイスト [警察の怪談] 」http://nekotou-senngenn.blog.so-net.ne.jp/2014-06-05-5 で、ポルターガイスト現象にならって、ドイツ語の単語のPolizei(警察)とGeist(霊)をくっつけて、「警察の霊」を表すポリツァイ・ガイスト(Polizeigeist)という和製ドイツ語を作ったと言ったが、ドイツ語の Geist には「霊魂」「魂」「幽霊」「霊」といった意味のほか、「精神」と言う意味もある。
ここまで話せば、勘のいい人は、なぜわざわざ、ポリツァイ・ガイスト(Polizeigeist)という和製ドイツ語を作ったのかご理解いただけたと思うが、
ポリツァイ・ガイスト(Polizeigeist)という和製ドイツ語を作ったのは、ポルターガイスト(Poltergeist)現象に語感を似せるためだけではなく、「警察の霊」と「警察精神」を同じ語で表したかったからである。
英語では、「警察の霊」は police ghost、「警察精神」は police mind となり、「警察の霊」「警察精神」を同じ語で表現すると無理があるから、わざわざ、和製ドイツ語にしたというわけである。
「警察の怪談」は、非科学的な霊現象としても読めるが、「警察精神」とでも呼ぶべき人間の精神の一部に偏った働きによって引き起こされる道義的同情を欠いた現象としても読むことができるのである。
「警官たちがあらわれて、銃口を七瀬に擬したままゆっくりと近づいてきた。眼をなかば閉じた無表情な顔をし、まるで機械人間のようにぎこちない歩きかたで、彼らは徐々に七瀬の方へやってきた。こんなに大勢の警官がどこから、と思うほどの人数だった。彼らはたしかにへンリーの形容した死霊《ゾンビー》に似て、自らの意志を持たず、ただ命令されたままに動いていた。ではあの殺人者たちは、墓場から死者を蘇らせ、自らの命じるままに行動させる術を知っていたのだろうか、と、一瞬七瀬が思ったほど、彼ら警官たちは不気味で、死の匂いをあたりへ発散させていた。」
「警宮たちは強力な催眠術をかけられ、自らの思考力と行動力を奪われてしまっていた。意識は持っているものの、その自我の大部分の機能は停正させられていて、その為にこそ七瀬には彼ら自身の思考を微弱にしか感じ取れなかったのである。」
筒井康隆が描く催眠術で操られる警察官は、まさに、心理学的監督やイメージによって、操作されている現実の警察官そのものである。
筒井康隆の『七瀬ふたたび』には、警察の良いイメージを破壊する鋭い描写があるが、小説が映像化される時、不思議なことに、その描写が消える。
1979年のNHK少年ドラマシリーズ版『七瀬ふたたび』では、ノリオやヘンリーは警官隊ではなくショッカーのような黒服軍団に射殺される。七瀬については、撃たれたかどうかは、判断できなかった。
2008年のNHKドラマ8版『七瀬ふたたび』では、ヘンリーが警察官に射殺された場面は確認できたが、七瀬がダレに撃たれたかは確認できなかった。また、原作には七瀬に味方する刑事などいなかったように思うが、このドラマには七瀬に味方する高村刑事がいた。
2010年の映画版『七瀬ふたたび』では、迷彩服の集団が登場するが、警官隊かどうかはざっと見ただけではわからなかった。また、2008年のNHKドラマ8版『七瀬ふたたび』同様、七瀬たちに味方する山木刑事がいた。
なぜ、原作の見事な警察の描写を映像化しないのだろうか?
犬党のヒトビトは、全く気にしないと思うが…
超能力のような何か見えない力が加えられて、警察の描写が変えられているように思える。
北朝鮮や中国の国民で言論統制されていないと思っているのは、幼児や知的レベルの低いヒトたちだけだろうが・・・
日本国民は、警察に関する言論統制の存在に全く気付くことがない。
言論統制は、あからさまにわからないのが、本当の言論統制であり、この言論統制を可能にしているのは、日本型の全体主義(警察主義とも呼ぶべき国家主義)である。
いや、日本人に憑依した「ポリツァイ・ガイスト」の仕業である。
このポリッアイ・ガイストは、夏目漱石が批判した戦前の代表的警察官僚松井茂が鼓吹した「警察精神」と同じものである。
「警察精神」、それは、国民皆警察化によって、「自らの思考力と行動力を奪われてしまって」、「意識は持っているものの、その自我の大部分の機能は停正させられ」、「死霊《ゾンビー》に似て、自らの意志を持たず、ただ命令されたままに動いて」、「無表情な顔をし、まるで機械人間」のような状態にされた人間の精神である。
現在は、警察研究がタブーであるから、警察内で起こる数々の怪奇現象は、真怪である。
だがもし、この真怪であるポリッアイ・ガイスト(警察の霊)現象が、科学的に検証されれば、ポリッアイ・ガイスト(警察の霊)が松井茂が暗示や模倣を駆使して作り出した警察化したニンゲンの精神であることが明らかになるはずである。
警察研究がすすめば、警察内で起こる数々の怪奇現象が、人間の精神の一部に偏った働きによって、引き起こされる数々の道義的同情を欠いた行為によって引き起こされた現象であることが明らかになり、その人間の精神の一部に偏った働きのことを、ポリツァイ・ガイスト【Polizeigeist:Polizei(警察)とGeist(精神)】と呼ぶべき概念であることを知るはずである。
つまり、ポリッアイ・ガイスト(警察の霊)が、引き起こす数々の怪奇現象、真怪の原因が、じつは、「警察精神」(Polizeigeist)であることが明らかになるはずである。
「④警察の霊 ポリツァイガイスト [警察の怪談] 」http://nekotou-senngenn.blog.so-net.ne.jp/2014-06-05-5 で、ポルターガイスト現象にならって、ドイツ語の単語のPolizei(警察)とGeist(霊)をくっつけて、「警察の霊」を表すポリツァイ・ガイスト(Polizeigeist)という和製ドイツ語を作ったと言ったが、ドイツ語の Geist には「霊魂」「魂」「幽霊」「霊」といった意味のほか、「精神」と言う意味もある。
ここまで話せば、勘のいい人は、なぜわざわざ、ポリツァイ・ガイスト(Polizeigeist)という和製ドイツ語を作ったのかご理解いただけたと思うが、
ポリツァイ・ガイスト(Polizeigeist)という和製ドイツ語を作ったのは、ポルターガイスト(Poltergeist)現象に語感を似せるためだけではなく、「警察の霊」と「警察精神」を同じ語で表したかったからである。
英語では、「警察の霊」は police ghost、「警察精神」は police mind となり、「警察の霊」「警察精神」を同じ語で表現すると無理があるから、わざわざ、和製ドイツ語にしたというわけである。
「警察の怪談」は、非科学的な霊現象としても読めるが、「警察精神」とでも呼ぶべき人間の精神の一部に偏った働きによって引き起こされる道義的同情を欠いた現象としても読むことができるのである。
[再掲]開高健の『猫』と『坊っちゃん』に対する指摘 [「無人警察」ほか]
開高健は『今日は昨日の明日 ジョージ・オーウェルをめぐって』(筑摩書房、1984年)で、フランスの批評家のティボーの言葉として「いかなる名作も教壇で講義されたとたん凡作になる」という言葉を引用して、「学校で教えたらもう駄目だな」と述べている。
さらに、『書斎のポトフ』(筑摩書房、2012年)では、「寺田寅彦が、漱石の作では『猫』と『坊っちゃん』がいちばん傑作で、のびのびとして書かれている、それ以後の作品は窮屈であると、あたりはばからず率直な意見を述べているけれど、まったくその通りだと思う」と、寺田寅彦と同様に『猫』と『坊っちゃん』を評価しつつ、「文芸評論家が議論するのは漱石晩年の荘重深刻な小説ばっかり。彼らも『猫』と『坊っちゃん』を楽しんだに違いないのに、それでいて、この二大作品につては口をつぐみ、まともに語った人は一人もいない。」と、文芸評論家に対する不満を述べている。
開高健の『猫』と『坊っちゃん』に対するこの指摘は、正しいように思われる。
とくに文芸評論家は、『猫』について、まともに語ろうとしていない。
最近は、杉田弘子氏の『漱石の「猫」とニーチェ』という良書の功績で、漱石がニーチェ哲学の影響を強く受けたということが定説となった感がある。いまさらわたしが、漱石がショーペンハウアー哲学の影響を強く受けていると主張しても、信じる人は少ないだろうが、あえて言えば、漱石の思想はニーチェよりショーペンハウアーに近い。
杉田氏は『漱石の「猫」とニーチェ』で、漱石とニーチェの関係を主張するために、『猫』で漱石がニーチェを引用していることと、東北大学所蔵漱石文庫のニーチェの著書に多くの書き込みがあることを根拠にしている。それないりに説得力があるといえるだろう。ただ、この書の評価は、ニーチェの漱石への影響というよりは、杉田氏が漱石に絡めて、自身のニーチェ哲学への深い理解を表現したことが高く評価されているように思われる。
杉田氏のニーチェ哲学の深い理解を生半可なニーチェ理解でおいそれと批判するわけにはいかないが、ニーチェの漱石への影響については、反証可能である。
韓国人研究者の朴裕河(パク ユハ)氏は『日本近代文学とナショナル・アイデンティティ』(朴氏の博士論文)という論文の「第十章 漱石とショーペンハウアー」で、漱石がショーペンハウアーを複数の作品で引用していることと、東北大学所蔵漱石文庫のショーペンハウアーの著書に多くの書き込みがあることを根拠に「漱石とショーペンハウアーの関係は今までほとんど省みられることはなかったが、漱石とショーペンハウアーの関係は予想以上に深い」と指摘している。
これは、杉田氏の漱石がニーチェの著書に多くの書き込みをしているという根拠と同じである。
残念なことに朴氏は、『吾輩は猫である』への言及は避けている。おそらく朴氏は『吾輩は猫である』に言及すると、学位認定にマイナスになると考えて言及しなかったのだろう。もし、真っ向から『吾輩は猫である』に取り組めば、朝鮮半島の植民地統治(社会教化事業[運動])に大きな影響を与えた戦前の代表的警察官僚松井茂と夏目漱石の関係に気付くことができたかもしれない。残念なことである。
杉田氏は、ニーチェの著書に多くの書き込みがあることを根拠にしているが、漱石はショーペンハウアーの著書にも多くの書き込みをしているのである。このことから考えると、漱石の書き込みは、ニーチェに対する興味というより、漱石の蔵書に対する読書の仕方の特徴というべきであろう。杉田氏や朴氏の蔵書への漱石の書き込みに対する指摘は、漱石の読書方法の特徴、いわゆる癖といえそうである。
朴氏が指摘するように漱石は、ショーペンハウアーを『カーライル博物館』で「英雄」と呼んでいる。
また、朴氏は指摘していないが、漱石は寺田寅彦への書簡でも「倫敦には無数の『アン』有之『ショーペ[ン]ハウワー』の説によれば8,500にんとか申す儀に候へば貴兄の御近づきの先生は一寸見当り不申何れ其内面会の折も有之候へば君よりよろしくと可申候」と、ショーペンハウアーを引用している。
漱石は、なにやら暗号めいたやりとりを寺田寅彦とするさいに、ショーペンハウアーを引用しているのである。ところが、私が漱石全集を読んだ範囲では、ニーチェについては、このような意味深な表現はない。
漱石のショーペンハウアーに対する思い入れは、ニーチェに対する思い入れより大きいように思われる。
そればかりではない。
漱石が文学者になる決心をした際に漱石に影響を与えたとされる漱石の親友米山保三郎が遺した唯一の論文の題目が、「『シオペンハワー』氏充足主義の四根を論ず」というものなのである。自身の人生に大きな影響を与えた早世した親友が、唯一この世に残した論文で扱った哲学者に興味がわかないないはずはないだろう。
ソウル出身の朴氏は、日本の義務教育における国語教育を受けていないため、何の先入観もなく漱石の作品を読めたのであろう。朴氏は新発見(再発見?)のように語っているが、漱石の思想はニーチェよりショーペンハウアーに近い。
普通に読めば、道義的同情を重視する漱石の思想は、同情を否定するニーチェより、同情を道徳の根拠とするショーペンハウアーの思想に近いことは明白である。
控え目なショーペンハウアー研究者たちは、声高に主張しないが、彼らの間では、漱石とショーペンハウアーとの思想的繋がりは、昔から指摘されていることなのである。
じつは、漱石の著作に登場する「カーライル」や「天然居士(米山保三郎)」と同様に「ニーチェ」「ハルトマン」「ケーベル」「寺田寅彦」「自殺」「婚姻」などをキーワードにたどって行くと、ショーペンハウアーに突き当たるのである。
また、漱石の著書にケーベルに関する記述で玉突き云々というのがあるが、ケーベルと玉突きをよくした人物というのは、金井延である。金井延の~主義に関する考えは、漱石によく似ている。
この金井延の弟子に桑田熊蔵(漱石と同期)や井上友一(漱石と同期)がいる。桑田と井上(井上は論文で警察を批判している)は、社会教化事業(運動)の指導者であった。
この桑田や井上の社会政策思想・社会教化事業(運動)と、窪田静太郎(漱石の先輩にあたる)や松井茂(漱石と同期で漱石の親友中村是公の親友)の社会政策思想・社会教化事業(運動)との差異を知った上で、漱石の同期(松井茂)たちが展開する国民精神総動員運動へと至る社会教化事業(運動)の周辺に漱石がいたことを前提に、漱石の『文学論』を読めば、漱石の『文学論』が文学論にかこつけた世論研究であることは誰にでも理解できるはずである。
『文学論』における世論研究を背景として漱石作品があると考えて、漱石の作品を読み返せば、漱石が何をしようとしていたかは自ずとわかるはずである。
これまで地上に存在した文芸評論家たちは、漱石がショーペンハウアーの思想的影響を受けていたことと漱石が警察の比喩として「探偵」という語を使っていることを完全に無視して、『吾輩は猫である』を読み流している。
文芸評論家は、『吾輩は猫である』の諷喩を全く理解することなく、漱石の作品群を読んでいるのである。
開高健の「『猫』と『坊っちゃん』」「二大作品につては口をつぐみ、まともに語った人は一人もいない。」との文芸評論家に対する指摘は、実にすばらしい指摘である。
開高健の、「いかなる名作も教壇で講義されたとたん凡作になる」との指摘は、漱石が教科書で取りあげられることが最も多い作家であるため、かえって漱石の風刺の真髄(警察の比喩として「探偵」という語を使って警察による社会強化事業[運動]を批判)が語られずじまいになっているとのことを教えてくれているようにさえ思える。
漱石が警察の比喩として「探偵」という語を使っていることを知れば、漱石が『二百十日』で述べている「文明の革命」が何か容易にわかるし、漱石の文明批判が何かも一目瞭然である。探偵化(皆警察化)した現在、漱石作品の中で、探偵化した人間が探偵的に探偵と戦う『坊っちゃん』に人気が集まるのも、もっともなことである。ヤマアラシのジレンマ(ショーペンハウアーの小話が元)を見るようでもある。
このブログで追々明らかにしていきたいと思うが、漱石は、人間が探偵化(警察化)すること、国民皆警察(戦前の代表的警察官僚の松井茂が推進した政策)という社会教化事業[運動]を批判していたのである。
【猫党に興味を持たれた方は、本ブログの左側のサイドバーにある「マイカテゴリー」中の「第一章 漱石は志士の如く」から順に本ブログをお読みください。】
さらに、『書斎のポトフ』(筑摩書房、2012年)では、「寺田寅彦が、漱石の作では『猫』と『坊っちゃん』がいちばん傑作で、のびのびとして書かれている、それ以後の作品は窮屈であると、あたりはばからず率直な意見を述べているけれど、まったくその通りだと思う」と、寺田寅彦と同様に『猫』と『坊っちゃん』を評価しつつ、「文芸評論家が議論するのは漱石晩年の荘重深刻な小説ばっかり。彼らも『猫』と『坊っちゃん』を楽しんだに違いないのに、それでいて、この二大作品につては口をつぐみ、まともに語った人は一人もいない。」と、文芸評論家に対する不満を述べている。
開高健の『猫』と『坊っちゃん』に対するこの指摘は、正しいように思われる。
とくに文芸評論家は、『猫』について、まともに語ろうとしていない。
最近は、杉田弘子氏の『漱石の「猫」とニーチェ』という良書の功績で、漱石がニーチェ哲学の影響を強く受けたということが定説となった感がある。いまさらわたしが、漱石がショーペンハウアー哲学の影響を強く受けていると主張しても、信じる人は少ないだろうが、あえて言えば、漱石の思想はニーチェよりショーペンハウアーに近い。
杉田氏は『漱石の「猫」とニーチェ』で、漱石とニーチェの関係を主張するために、『猫』で漱石がニーチェを引用していることと、東北大学所蔵漱石文庫のニーチェの著書に多くの書き込みがあることを根拠にしている。それないりに説得力があるといえるだろう。ただ、この書の評価は、ニーチェの漱石への影響というよりは、杉田氏が漱石に絡めて、自身のニーチェ哲学への深い理解を表現したことが高く評価されているように思われる。
杉田氏のニーチェ哲学の深い理解を生半可なニーチェ理解でおいそれと批判するわけにはいかないが、ニーチェの漱石への影響については、反証可能である。
韓国人研究者の朴裕河(パク ユハ)氏は『日本近代文学とナショナル・アイデンティティ』(朴氏の博士論文)という論文の「第十章 漱石とショーペンハウアー」で、漱石がショーペンハウアーを複数の作品で引用していることと、東北大学所蔵漱石文庫のショーペンハウアーの著書に多くの書き込みがあることを根拠に「漱石とショーペンハウアーの関係は今までほとんど省みられることはなかったが、漱石とショーペンハウアーの関係は予想以上に深い」と指摘している。
これは、杉田氏の漱石がニーチェの著書に多くの書き込みをしているという根拠と同じである。
残念なことに朴氏は、『吾輩は猫である』への言及は避けている。おそらく朴氏は『吾輩は猫である』に言及すると、学位認定にマイナスになると考えて言及しなかったのだろう。もし、真っ向から『吾輩は猫である』に取り組めば、朝鮮半島の植民地統治(社会教化事業[運動])に大きな影響を与えた戦前の代表的警察官僚松井茂と夏目漱石の関係に気付くことができたかもしれない。残念なことである。
杉田氏は、ニーチェの著書に多くの書き込みがあることを根拠にしているが、漱石はショーペンハウアーの著書にも多くの書き込みをしているのである。このことから考えると、漱石の書き込みは、ニーチェに対する興味というより、漱石の蔵書に対する読書の仕方の特徴というべきであろう。杉田氏や朴氏の蔵書への漱石の書き込みに対する指摘は、漱石の読書方法の特徴、いわゆる癖といえそうである。
朴氏が指摘するように漱石は、ショーペンハウアーを『カーライル博物館』で「英雄」と呼んでいる。
また、朴氏は指摘していないが、漱石は寺田寅彦への書簡でも「倫敦には無数の『アン』有之『ショーペ[ン]ハウワー』の説によれば8,500にんとか申す儀に候へば貴兄の御近づきの先生は一寸見当り不申何れ其内面会の折も有之候へば君よりよろしくと可申候」と、ショーペンハウアーを引用している。
漱石は、なにやら暗号めいたやりとりを寺田寅彦とするさいに、ショーペンハウアーを引用しているのである。ところが、私が漱石全集を読んだ範囲では、ニーチェについては、このような意味深な表現はない。
漱石のショーペンハウアーに対する思い入れは、ニーチェに対する思い入れより大きいように思われる。
そればかりではない。
漱石が文学者になる決心をした際に漱石に影響を与えたとされる漱石の親友米山保三郎が遺した唯一の論文の題目が、「『シオペンハワー』氏充足主義の四根を論ず」というものなのである。自身の人生に大きな影響を与えた早世した親友が、唯一この世に残した論文で扱った哲学者に興味がわかないないはずはないだろう。
ソウル出身の朴氏は、日本の義務教育における国語教育を受けていないため、何の先入観もなく漱石の作品を読めたのであろう。朴氏は新発見(再発見?)のように語っているが、漱石の思想はニーチェよりショーペンハウアーに近い。
普通に読めば、道義的同情を重視する漱石の思想は、同情を否定するニーチェより、同情を道徳の根拠とするショーペンハウアーの思想に近いことは明白である。
控え目なショーペンハウアー研究者たちは、声高に主張しないが、彼らの間では、漱石とショーペンハウアーとの思想的繋がりは、昔から指摘されていることなのである。
じつは、漱石の著作に登場する「カーライル」や「天然居士(米山保三郎)」と同様に「ニーチェ」「ハルトマン」「ケーベル」「寺田寅彦」「自殺」「婚姻」などをキーワードにたどって行くと、ショーペンハウアーに突き当たるのである。
また、漱石の著書にケーベルに関する記述で玉突き云々というのがあるが、ケーベルと玉突きをよくした人物というのは、金井延である。金井延の~主義に関する考えは、漱石によく似ている。
この金井延の弟子に桑田熊蔵(漱石と同期)や井上友一(漱石と同期)がいる。桑田と井上(井上は論文で警察を批判している)は、社会教化事業(運動)の指導者であった。
この桑田や井上の社会政策思想・社会教化事業(運動)と、窪田静太郎(漱石の先輩にあたる)や松井茂(漱石と同期で漱石の親友中村是公の親友)の社会政策思想・社会教化事業(運動)との差異を知った上で、漱石の同期(松井茂)たちが展開する国民精神総動員運動へと至る社会教化事業(運動)の周辺に漱石がいたことを前提に、漱石の『文学論』を読めば、漱石の『文学論』が文学論にかこつけた世論研究であることは誰にでも理解できるはずである。
『文学論』における世論研究を背景として漱石作品があると考えて、漱石の作品を読み返せば、漱石が何をしようとしていたかは自ずとわかるはずである。
これまで地上に存在した文芸評論家たちは、漱石がショーペンハウアーの思想的影響を受けていたことと漱石が警察の比喩として「探偵」という語を使っていることを完全に無視して、『吾輩は猫である』を読み流している。
文芸評論家は、『吾輩は猫である』の諷喩を全く理解することなく、漱石の作品群を読んでいるのである。
開高健の「『猫』と『坊っちゃん』」「二大作品につては口をつぐみ、まともに語った人は一人もいない。」との文芸評論家に対する指摘は、実にすばらしい指摘である。
開高健の、「いかなる名作も教壇で講義されたとたん凡作になる」との指摘は、漱石が教科書で取りあげられることが最も多い作家であるため、かえって漱石の風刺の真髄(警察の比喩として「探偵」という語を使って警察による社会強化事業[運動]を批判)が語られずじまいになっているとのことを教えてくれているようにさえ思える。
漱石が警察の比喩として「探偵」という語を使っていることを知れば、漱石が『二百十日』で述べている「文明の革命」が何か容易にわかるし、漱石の文明批判が何かも一目瞭然である。探偵化(皆警察化)した現在、漱石作品の中で、探偵化した人間が探偵的に探偵と戦う『坊っちゃん』に人気が集まるのも、もっともなことである。ヤマアラシのジレンマ(ショーペンハウアーの小話が元)を見るようでもある。
このブログで追々明らかにしていきたいと思うが、漱石は、人間が探偵化(警察化)すること、国民皆警察(戦前の代表的警察官僚の松井茂が推進した政策)という社会教化事業[運動]を批判していたのである。
【猫党に興味を持たれた方は、本ブログの左側のサイドバーにある「マイカテゴリー」中の「第一章 漱石は志士の如く」から順に本ブログをお読みください。】
[再掲]小林多喜二の『蟹工船』(新潮文庫)が売れているらしい。小林多喜二ブームらしいので「警察と文学 小林多喜二の山本巡査」兵庫県警察本部機関誌『旭影』(昭和33年、7月号)を再掲。 [「無人警察」ほか]
以下の文章は、突然閉鎖された「博士の愛した株式」というブログに掲載されていた記事である。
小林多喜二の『蟹工船』(新潮文庫)が売れているらしい。小林多喜二ブームらしいので「警察と文学 小林多喜二の山本巡査」兵庫県警察本部機関誌『旭影』(昭和33年、7月号)を再掲。 [CR戦略・CI活動(国民皆警察)]
小林多喜二の『蟹工船』(新潮文庫)が売れているらしい。
小林多喜二ブームなのだそうだ。
兵庫県警察本部機関誌『旭影』(昭和33年、7月号)に「警察と文学 小林多喜二の山本巡査」という記事がある。
この記事は、角川書店から『小林多喜二全集』が出版されたことに危機感を持った警察が、小林多喜二を拷問で殺した事実に対する警察の認識をおまわりさん(警察官)に徹底することを目的に行った広報と思われる。つまり、おまわりさん(警察官)が拷問で小林多喜二を殺したという事実を知った場合の組織内の動揺に対する危機管理と思われる。
警察精神をもってすれば、歴史など簡単に作り変えられるのである。ま、裁判等の証拠を簡単に偽装・捏造するのだから、当然といえば当然である。南京虐殺や沖縄の集団自決等々も警察精神を持ってみれば、自然死ということになる。大相撲時津風部屋の力士の集団暴行殺人も「急性心不全」である。
こんな警察を信じて裁判をやっているのだから、裁判官や検察官は、霊視ができる警視やシンナーを吸って手からカメハメハが出ると思っている少年とかわりない。らりぱっぱ国家、日本!
※兵庫県警察本部機関誌『旭影』(昭和33年、7月号)が、昭和33年と古い記事だから、今の警察は違うと強弁するヒトがいるかもしれないが、そんな方 は、『旭影』発行30周年記念号と『旭影』発行60周年記念号を読み比べてみていただきたい(内容についてはこのブログのどこかで書いた)。ここでも、兵 庫県警察本部は歴史を書き変えている。ついでに『旭影』創刊号を見れば、戦前の日本警察が 今上天皇の誕生をも宣伝に利用し、日本を危うい方向へ導いていったことが理解できるはずである。
※必死に山本巡査のようなヒトはいなかったと否定していることが、山本巡査のようなヒトが存在したことを証明しているといえるだろう。いないのなら、わざわざ否定する必要はない。今でも山本巡査のようなヒトはゴロゴロいるのだろう。警察内イジメで発狂・自殺等々。
2008-06-25 12:29 nice!(0) コメント(0) トラックバック(0)
小林多喜二の『蟹工船』(新潮文庫)が売れているらしい。小林多喜二ブームらしいので「警察と文学 小林多喜二の山本巡査」兵庫県警察本部機関誌『旭影』(昭和33年、7月号)を再掲。 [CR戦略・CI活動(国民皆警察)]
小林多喜二の『蟹工船』(新潮文庫)が売れているらしい。
小林多喜二ブームなのだそうだ。
兵庫県警察本部機関誌『旭影』(昭和33年、7月号)に「警察と文学 小林多喜二の山本巡査」という記事がある。
この記事は、角川書店から『小林多喜二全集』が出版されたことに危機感を持った警察が、小林多喜二を拷問で殺した事実に対する警察の認識をおまわりさん(警察官)に徹底することを目的に行った広報と思われる。つまり、おまわりさん(警察官)が拷問で小林多喜二を殺したという事実を知った場合の組織内の動揺に対する危機管理と思われる。
警察精神をもってすれば、歴史など簡単に作り変えられるのである。ま、裁判等の証拠を簡単に偽装・捏造するのだから、当然といえば当然である。南京虐殺や沖縄の集団自決等々も警察精神を持ってみれば、自然死ということになる。大相撲時津風部屋の力士の集団暴行殺人も「急性心不全」である。
こんな警察を信じて裁判をやっているのだから、裁判官や検察官は、霊視ができる警視やシンナーを吸って手からカメハメハが出ると思っている少年とかわりない。らりぱっぱ国家、日本!
※兵庫県警察本部機関誌『旭影』(昭和33年、7月号)が、昭和33年と古い記事だから、今の警察は違うと強弁するヒトがいるかもしれないが、そんな方 は、『旭影』発行30周年記念号と『旭影』発行60周年記念号を読み比べてみていただきたい(内容についてはこのブログのどこかで書いた)。ここでも、兵 庫県警察本部は歴史を書き変えている。ついでに『旭影』創刊号を見れば、戦前の日本警察が 今上天皇の誕生をも宣伝に利用し、日本を危うい方向へ導いていったことが理解できるはずである。
※必死に山本巡査のようなヒトはいなかったと否定していることが、山本巡査のようなヒトが存在したことを証明しているといえるだろう。いないのなら、わざわざ否定する必要はない。今でも山本巡査のようなヒトはゴロゴロいるのだろう。警察内イジメで発狂・自殺等々。
2008-06-25 12:29 nice!(0) コメント(0) トラックバック(0)