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③猫党と犬党、漱石の敵とは ブログトップ

1.猫党と犬党 ― 漱石の親友中村是公 [③猫党と犬党、漱石の敵とは]

 漱石の敵がだれなのか推理するには、漱石の交友関係を知る必要がある。学生時代の漱石には、親友の正岡子規、米山保三郎、中村是公(なかむら ぜこう:一八六七年―一九二七年、南満州鉄道株式会社総裁、鉄道院総裁、貴族院議員、東京市長)のほかにも多くの友人がいたようである。なかでも、親友中村是公の存在は有名で、中村是公は正岡子規、米山保三郎が早世したのとは異なり、漱石の死まで親交があった。
 漱石と中村是公は一八八四年(明治十七)九月に東京大学予備門予科に入学している。漱石は当時をふりかえって、「何とか彼んとかして予備門へ入るには入ったが、惰けて居るのは甚だ好きで少しも勉強なんかしなかった。水野錬太郎、今美術学校の校長をして居る正木直彦、芳賀矢一なども同じ級だったが、是等は皆な勉強家で、自ら僕等の怠け者の仲間とは違って居て、其間に懸隔があったから、更に近づいて交際する様なこともなく全然離れて居ったので、彼方でも僕等の様な怠け者の連中は駄目な奴等だと軽蔑して居たろうと思うが、此方でも亦試験の点許り取りたがって居る様な連中は共に談ずるに足らずと観じて、僕等は唯遊んで居るのを豪いことの如く思って怠けて居たものである。」(『落第』)「その頃は大勢で猿楽町の末富屋という下宿に陣取っていた。この同勢は前後を通じると約十人近くあったが、みんな揃いも揃った馬鹿の腕白で、勉強を軽蔑するのが自己の天職であるかのごとくに心得ていた。」「稍ともすると、我々はポテンシャル・エナージーを養うんだと云って、むやみに牛肉を喰って端艇を漕いだ。」(『満韓ところどころ』)「端艇競漕などは先ず好んで行った方であろう。前の中村是公氏などは、中々運動は上手の方で、何時もボートではチャンピオンになっていた位であるが、私は好きでやったと云っても、チャンピオンなどには如何してもなれなかった。」(『私の経過した学生時代』)「明治二十年の頃だったと思う。同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで日着日帰りの遠足をやった事がある。」(『満韓ところどころ』)などと書いている。
 漱石自身が親友と呼ぶだけあって、中村是公とは特別なエピソードがある。「中村が端艇競争のチャンピヨンになって勝った時、学校から若干の金をくれて」、「中村はその時おれは書物なんかいらないから、何でも貴様の好なものを買ってやると云った。そうしてアーノルドの論文と沙翁のハムレットを買ってくれた。」(『永日小品』)「月五円の月給で中村是公氏と共に私塾の教師をしながら予科の方へ通っていたことがある。」「塾の寄宿舎に入っていたから」「此の中から湯銭の少しも引き去れば、後の残分は大抵小遣いになったので、五円の金を貰うと、直ぐその残分丈けを中村是公氏の分と合せて置いて、一所に出歩いては、多く食う方へ費して了ったものである。」(『私の経過した学生時代』)と、中村是公と一緒にアルバイト先で共同生活したことなどを書いている。ただ残念なことに漱石は、親友中村是公と一緒に遊んだことなどについてしか書いていないのだ。そのため漱石の作品からは、中村是公の思想的立場などについて知ることができない。
 漱石の死後のことだが、中村是公の思想的立場の一端が垣間見えるエピソードがある。それは一九二一年(大正十)三月十五日の貴族院分科会での水戸中学校長の菊池謙二郎の舌禍事件に関する質問である。この質問で中村是公は菊池を擁護している。水戸中学校長の菊池謙二郎の舌禍事件というのは「国民道徳と個人道徳」と題した菊池の講演の内容が危険思想として問題視された事件のことである。
 舌禍事件を起した菊池謙二郎は、漱石が愛媛県尋常中学へ赴任の際に赴任準備費約50円を借りたことで有名な友人で、漱石や中村是公と東京大学予備門予科で同級生であった。また菊池謙二郎については、漱石の菅虎雄宛書簡に「君ハ時々菊謙ト議論ヲスル相ダナ両方共強情ダカラ面白イダラウ」(明治三十六年七月三日付菅虎雄宛書簡)とあり、漱石と菊池謙二郎が学生時代に議論したであろうことがうかがえる。
 菊池謙二郎は先の講演で穂積八束(ほづみやつか:一八六〇-一九一二、君主絶対主義の立場にたつ憲法論を唱え、天皇主権を「国体」としてその絶対不変を唱えた。法学者。穂積陳重の弟)、井上哲次郎、吉田熊次(井上哲次郎の女婿)の名を上げて、「五六年前より文部省に行わるる中等学校教員検定試験には何科に拘らず国民道徳の一科だけは一律に真先に課して居るのでありますが検定試験委員たる二三博士の説にはどうも敬服することが出来ぬ。然らば彼等の国民道徳は何であるかと云うに第一祖先崇拝、第二家族制度、第三忠孝一本、第四武士道が日本国民道徳の骨子なりと云うことになって居ります。処で国民道徳と云えばその国民に特有の道徳であって其国特有の思想感情を以て其の骨子要素とせなければならぬという彼等の解釈に基き、前記四者は果して日本に特有のものか。否か私は大に疑惑を抱かざるを得ない。 若し果して特有でなければ彼等の説は論理上当然崩壞するわけである。」(菊池謙二郎「校正したる『国民道徳と個人道徳』」『危険視せられし道徳論と辞職顛末』大正十年)と述べ、祖先崇拝、家族制度、忠孝一本、武士道が必ずしも日本特有のものでないと結論した。
 中村是公は菊池謙二郎を擁護する際、先祖について「二三代以前のものならば、それは分かりもしやうが、殆ど分からないものも多数ある、自分にした所が、先きの所は分らぬ」(これは明治三十九年四月十一日付三重吉宛書簡で漱石が「先祖代々の血統を吟味したら日本中に確たる家柄は一軒もなくなる」と述べたことに似ている)などと述べて祖先崇拝、家族制度、忠孝一本、武士道が必ずしも日本特有のものでないとして、菊池謙二郎の論は危険思想にあたらないとしている。中村是公が菊池謙二郎を擁護したことから、中村是公も菊池謙二郎と同様に祖先崇拝、家族制度、忠孝一本、武士道が必ずしも日本特有のものでないと考えていたと思われる。
 興味深いことに、漱石の門弟であった和辻哲郎も菊池同様に穂積八束、井上哲次郎を批判している。和辻哲郎は戦後『日本倫理思想史 下』で、国体概念を否定し、井上哲次郎による明治後期の国民道徳論を批判している。また、佐々木惣一博士との「国体変更」論争では「国体」という語の廃止を主張した。この「国体」という語の廃止は、穂積八束の国体論の全否定にほかならない。
 このように、漱石の親友中村是公は菊池謙二郎を擁護し、菊池や門弟和辻哲郎は、穂積八束、井上哲次郎を批判していたのである。
 このことから推理すると、漱石が批判していた人々に穂積八束、井上哲次郎が含まれると思われる。そして漱石がいう「猫党」とは、穂積八束、井上哲次郎などの国体論や国民道徳を批判する立場の人びとで、穂積八束、井上哲次郎の国体論や国民道徳に与する人びとが「犬党」といえる。



2.社会教化事業の指導者 ― 中村是公の親友松井茂 [③猫党と犬党、漱石の敵とは]

 先に漱石の作品に登場する「カーライル」「米山保三郎」「厭世」「英雄」の語をたどって行くとショーペンハウアーに突き当たると述べたが、じつは「中村是公」をキーワードにたどって行くと、ある警察官僚に突き当たる。
 漱石は鈴木三重吉宛書簡で「廣島のものには僕の朋友が少々ある昔は大分つき合つたものだ。」(明治三十九年二月十一日付鈴木三重吉宛書簡)と述べている。漱石には広島県出身者に親しい友人が多く、その一人が親友中村是公であったということになる。じつは、漱石の親友として有名な中村是公には、漱石と出会う前からもう一人の親友がいた。それは松井茂(まついしげる:一八六六―一九四五、穂積陳重・穂積八束の指導を受けて警察学に感心を抱き警察官僚となる。釜山理事庁理事官、韓国内部警務局長、静岡・愛知県知事、警察講習所長などを歴任。金鶏間祇候。貴族院議員。財団法人中央社会事業協会理事、社団法人赤十字社理事、警察協会副会長、大日本武徳会評議員、財団法人中央教化団体連合会常任理事、財団法人皇民会長、国民精神総動員中央連盟理事、選挙粛正中央連盟理事、大日本警防協会副会長。財団法人日本弘道会、財団法人労働者中央教育会、財団法人中央義士会、日本安全協会、大政翼賛会にも関与した)である。警視総監や朝鮮総督府警務局長、大政翼賛会事務総長などを務めた丸山鶴吉(まるやまつるきち:一八八三―一九五六、内務官僚)によると、「松井茂先生」は「警察消防の権威者であり、社会教化事業の指導者」(松井茂『松井茂自傳』松井茂先生自傳刊行會、一九五二年)であったという。
 この社会教化事業の指導者松井茂と中村是公とは、広島中学校時代の同級生であった。松井茂は一八八一年(明治十四)三月ごろを振り返り「同級生としては浅田榮次、谷口與四郎、柴野登一(後の中村是公)、末森鹿之助、田中國吉、深町儀七郎等があつた。」と記し、広島中学時代の是公について「柴野登一と云つた後の中村是公君は余り勉強家ではなかつたが、活発で小事に齷齪せず既に将来を嘱目せられて居つた。」と回想している。
 『松井茂自傳』によると、松井茂は「明治十七年九月首尾よく大学予備門の入学試験に合格した。」という。つまり夏目漱石や中村是公と同期の合格ということになる。その後、松井茂は「最も悪いことには飲酒の弊に陥つた為め遂に胃腸を害し著しく身体の健康を損ねたので、結局明治二十年六月の進級試験には、不勉強の数学が累ひして一年現級にとどまるの余儀なきに至つた。」という。漱石と是公の留年が一八八六年(明治十九)であったことから、一時期松井茂の方が先輩になった時期があることになるが、明治一八八七年(明治二十)以降は、松井茂、中村是公、夏目漱石は再び同輩となり、一八九三年(明治二十六)の大学卒業まで同輩であった。
 松井茂の思い出も漱石と重なる部分がある。「余等の一校時代は前記の如く上に木下名校長を戴き盛んに尚武の気風を涵養し、或は端艇の練習に或は陸上競技に大いに活躍したものであつた。」「余は撃剣少々、端艇時々、といふ位で格別出色のこともなかつたが、親友中村是公君を始め多数の学生は、見事な腕前であつた。」と、親友中村是公の端艇の腕前について、松井茂も漱石同様の記述をしている。三人は、同じ空間に存在したのである。
 松井茂は親友中村是公との思い出について以下のように語っている。「明治二十五年の夏の事であつたが、―中略―中村是公君の兄君の宅に招かれて酒盃を交換したが、談偶々剣舞の事に及び、余は其の座に有り合う刀剣を以て真剣で剣舞をやらうと言ひ出した。勿論酔の致せる業であるが、中村は刀を渡すまいと争ふうち何かの拍子で自ら指を傷けた。余は泥酔其の極に達し中村が帰途を促しても之に応ぜず盛んに反抗したので、中村は余を抱いて余の自宅まで同行、庭先に送り届けて呉れたのであるが、其の時出迎えへた母は中村が指に負傷して居るのを見て大いに驚いた。」と。今でいえば、飲酒しての傷害事件である。
 この事件の「翌日中村是公は見舞方々やつて来て、母に対し『茂さんはなかなか東京に於ては御勉強で、酒などに酩酊されることはありません』と弁解して呉れたが、母は大体是公其の人を信用せず『あの眼附きでは……』と云ふ訳で一向効能がなく、問題は遂に重大化」したという。松井茂によれば、「之等が動機となつて後年永く中村と親交を続ける事となつた」という。
 松井茂は、学生時代に広島県出身者の会を作ることに熱中しており、広島県出身の中村是公とともにいろいろ活動している。その一つに修道館という広島県出身者の寄宿舎がある。松井茂は「広島県友会の盛衰の鍵は、一に之等学生気風の推移如何に至大の関係を有したもので、勢の赴くところ余等の率先唱導により学生会宿所(後の修道館)創設の気運を醸成したもので、今から考えれば学業をそつちのけに、団体的行動に没頭したのは聊か脱線の譏を免れないけれども、其の精神に於ては大いに買つて貰う丈の値打があつたと思ふ。」「修道館と余との因縁も実に深いものがある。謂ふまでもなく之は我が広島県出身学生の東京に於ける寄宿舎で、かの広島県友会精神の延長とも見るべく、之が創立には余等が専ら微力を尽くしたもので、中村是公君の如きも余の禁酒以来最も親交を深めたので率先余の計画に共鳴し、確か明治二十五年十一月頃と記憶するが、初めて本郷区龍岡町臨麟祥院(俗に枳殻寺と称す)に家を構へたのであつた。」と述べている。松井茂は警察に仕官後もしばらくは修道館から出勤したというから、かなり熱心に活動したようである。
 大学卒業後、大学で研究生として警察の研究を続けながら警視庁試補の身分であった松井茂は、警察への仕官について中村是公に相談している。そして警視庁初登庁の際は、「明治二十六年十一月九日午前十時、余は親友中村是公君より借用のフロツクコートを一着に及び、悠然として警視庁に到り、警視属を拝命、四級俸を給せられ(但し名義のみ)第三部第一課勤務を命ぜられた。これぞ余が警察入りの第一歩だつたのである。」と、中村是公からフロックコートを借りて初登庁したという。
 また松井茂は、中村是公が東京市長になったおり「其の第四女を上原元帥の令息(今の貴族院議員上原七之助子爵)に嫁せしむるに当り、余が進んで媒酌の労を取つた」と述べている。さらに、一九一九年(大正八)の松井茂の母の葬儀に際して中村是公は、男爵船越光之亟、今泉喜一郎とともに友人総代を務めた。このように中村是公は松井茂と生涯を通じて親友であった。



3.漱石の敵とはだれなのか ― 国家主義を標榜したやかましい会 [③猫党と犬党、漱石の敵とは]

 『私の個人主義』に気になることが書いてある。
 「昔し私が高等学校にいた時分、ある会を創設したものがありました。その名も主意も詳しい事は忘れてしまいましたが、何しろそれは国家主義を標榜したやかましい会でした。もちろん悪い会でも何でもありません。当時の校長の木下広次さんなどは大分肩を入れていた様子でした。その会員はみんな胸にめだるを下げていました。私はめだるだけはご免蒙りましたが、それでも会員にはされたのです。無論発起人でないから、ずいぶん異存もあったのですが、まあ入っても差支なかろうという主意から入会しました。ところがその発会式が広い講堂で行なわれた時に、何かの機でしたろう、一人の会員が壇上に立って演説めいた事をやりました。ところが会員ではあったけれども私の意見には大分反対のところもあったので、私はその前ずいぶんその会の主意を攻撃していたように記憶しています。しかるにいよいよ発会式となって、今申した男の演説を聴いてみると、全く私の説の反駁に過ぎないのです。故意だか偶然だか解りませんけれども勢い私はそれに対して答弁の必要が出て来ました。私は仕方なしに、その人のあとから演壇に上りました。当時の私の態度なり行儀なりははなはだ見苦しいものだと思いますが、それでも簡潔に云う事だけは云って退けました。」(『私の個人主義』―大正三年十一月二十五日学習院輔仁会において述―)という個所である。
 とくに、①「昔し私が高等学校にいた時分、ある会を創設したものがありました。―中略―何しろそれは国家主義を標榜したやかましい会でした。」、②「その発会式が広い講堂で行なわれた時に、―中略―一人の会員が壇上に立って演説めいた事をやりました。」、③「今申した男の演説を聴いてみると、全く私の説の反駁に過ぎないのです。―中略―勢い私はそれに対して答弁の必要が出て来ました。私は仕方なしに、その人のあとから演壇に上りました。」という三カ所が気になる。探偵小説的に読むと、この男が漱石の敵ということになりそうである。
 「国家主義を標榜したやかましい会」がどのようなものであったか確認することはできないが、漱石の親友正岡子規が一八八九年(明治二十二)ごろに「道徳会ともいふべきもの」があったと記している。それは江藤淳氏が『漱石とその時代 第一部』(一四二―三頁)で引用している「道徳の標準」という以下の文章である。
 「近頃我高等中学校に道徳会ともいふべきものを起す人あり。余にもすすめられたれど、余は之に応ぜざりき。漱石も亦異説を唱へたり。其言に曰く、『余は今、道徳の標準なる者を有せず、故に事物に就て善悪を定むること能はず。然るに今道徳会を立て道徳を矯正せんといふは、果して何を標準として是非を知るや。余が今日の挙動は其瞬間の感情によりて定むる者なり。されば昨日の標準は今日の標準にあらず』と。余の説も略々これに同じ。今日善とする者果して善なるか。今日非とする者果して非なるかを疑ふ者なり。」(明治二十二年の断片)と、子規は道徳会について述べている。漱石がいう「国家主義を標榜したやかましい会」と子規がいう「道徳会ともいふべきもの」が同じ会であったかどうかは定かではないが、この当時、国家主義的な道徳を鼓吹する会があったのは確かなようである。
 漱石が国家主義的な雰囲気に神経質になっていたのとは対照的に松井茂は「余等の一高時代は前記の如く上に木下名校長を戴き盛んに尚武の気風を涵養し、或は端艇の練習に或は陸上競技に大いに活躍したものであつた。」と、「国家主義を標榜したやかましい会」に肩入れしていた木下広次校長に「尚武の気風を涵養し」と、好感を持って国家主義的雰囲気を歓迎している。
 また松井茂は、一八八九年(明治二十二)頃を振り返って「高等中学校の予科第一級修業後は各自法科或は医科に入るのであるが、決別前級和会が出来て盛んに興味ある会合を催した事があつた。今も忘れぬが余は独逸語で『ひとつとや節』を作つた。それは医に志す人は他日ピポクラテスのやうな大家となり、又法科に志す人は大臣となり弁護士となる事も容易である。学窓生活は矢の如く過去つて吾等は軈て紳士となり又国士ともなり得るのである。然し父母の高恩は決して忘れてはならない。殊に又日本に生まれたる以上は国粋保存の事に志すべきである。斯くて吾々同志が団欒の快楽を求むる時、会員たる者は、欠席することがあってはならぬ。茲に吾々の級和会が設けられたのであるから、お互に声朗かに歌ほうではないか――斯ういう意味の歌で未定稿ではあるが、全く余の自作にかかるものである。」と、「日本に生まれたる以上は国粋保存の事に志すべきである。」と主張して、決別前級和会のためにドイツ語の詩を作ったと述べている。
 さらに松井茂は、一九〇二年(明治三十五)七月二十九日に日本弘道会四谷支部会で「公徳と警察」と題して講演を行った際、その冒頭で「私は松井でござります、曾て此の四谷の公民の末席を汚して居りました、又学生時代より十数年来本会の末席を汚して居るやうな訳でござります」(『警察協会雑誌 第三〇号』明治三十五年十一月十三日)と述べている。松井茂は、一九〇二年(明治三十五)の十数年前から日本弘道会という国粋主義を主張する道徳の会に入会していたのである。一九〇二年(明治三十五)の十数年前は、ちょうど明治二十年代のはじめになる。
 松井茂が、漱石がいう「国家主義を標榜したやかましい会」の発起人であったかどうかは定かではない。だがもし、国家主義を標榜した会が発起されれば、松井茂はどうしたであろうか。当時の行動から推理すれば、松井茂は諸手を挙げて国家主義を標榜した会に賛同していたにちがいないのである。



4.接点がない二人 ― 漱石と松井茂の間にある奇妙な一致 [③猫党と犬党、漱石の敵とは]

 漱石は、『文学評論』で伝記解釈について「普通伝記と云ふものは、斯かる非常な例外たるべき現象を生ずるに足ると思はれるだけの事情が詳細に書いて無いものである。従つて批評家はよく一の犯し易い誤謬に陥る。即ち作そのものに顕はれた人生観などを、作家の生涯に於ける極めて微細な事件と結合して説明しようと試みる。」とか、「縦しや人間の仕事として個人の内部の伝記が完全に出来たとしても、其伝記だけでは作物の出来た原因が知れるとは云へない。」などと述べて、伝記に書いてあることに全幅の信頼を置くことの危険性を指摘している。このことは、漱石の自伝にもあてはまると考えられる。
 漱石の自伝には、不自然な点がある。漱石が中村是公と親友であったことは有名で、漱石自身が日記などに中村是公について書いていることが漱石全集などで確認できる。漱石の親友の中村是公は広島県出身で、漱石は中村是公以外の広島出身者とも親しく交際したはずなのである。それにもかかわらず、広島県友会という親睦団体を作った中村是公の親友の松井茂について、漱石は日記や他の作品などで、まったく触れていないのだ。
 同様に『松井茂自傳』にも松井茂の親友の中村是公の名が出てくるが、漱石の名はまったく出てこないのである。一般的に考えて、親友の親友に著名人がいたら、ついその人のことについて書きたくなるのが人情というものである。書きたくない特別な理由がない限り、全く触れないということはありえない。『松井茂自傳』には、中村是公以外の漱石の友人では菊池謙二郎が登場し、「茨城県人菊池謙二郎(後に有名なる学者、今東湖と称せらる)」と書いてある。ここで一つの疑問が浮かぶ。「後に有名なる学者」の菊池謙二郎と比べものにならないほど有名な夏目漱石の名前がどこにも見当たらないのはどうしてだろうかと。まるで松井茂が、意図的に漱石に言及することを避けているかのようである。
 漱石の日記などの作品と『松井茂自傳』の双方に登場する人物として、中村是公以外には、木下広次、菊池謙二郎、水野錬太郎、山縣五十雄、大浦兼武、呉秀三などがいる。漱石の伝記や日記には、内務官僚の水野錬太郎や旅順の警視総長の佐藤友熊が登場しており、内務官僚や警察官だからといって伝記や日記で言及を避けるというわけではないようである。また、内務官僚であった水野錬太郎は松井茂の上司として『松井茂自傳』に度々登場している。呉秀三は広島県出身で松井茂と広島県出身の親睦会の活動を熱心にした。漱石が第五高等学校の教授を辞職する際、菅虎雄に宛てた手紙で、医師の診断が必要になるので呉秀三を紹介してくれるよう依頼している。漱石の神経衰弱が嘘であったら、松井茂の親友呉秀三の診断が嘘ということになるのである。
 このように、自伝を読んだ限りでは、漱石と松井茂には、お互いの親友の中村是公以外にほとんど接点がみあたらない。あたかも、検閲によって削除されたかのように、である。だが、漱石と松井茂には、ニアミスともいえる微妙な遭遇の機会が何度かあるのである。
 『永日小品』で漱石は、「学校を出ると中村はすぐ台湾に行った。それぎりまるで逢わなかったのが、偶然倫敦の真中でまたぴたりと出喰わした。ちょうど七年ほど前である。その時中村は昔の通りの顔をしていた。そうして金をたくさん持っていた。自分は中村といっしょに方々遊んで歩いた。」と書いている。また漱石は、一九〇二年(明治三十五)四月十七日付けの妻宛の書簡で「四五日前中村是公が近頃は四千円位なくては嫁にはやれないといつた」と書いており、四月十日ごろに漱石と中村是公が会っていることが伺える。中村是公のロンドン滞在期間は不明だが「方々遊んで歩いた」というのだから、しばらく滞在していたと推理できる。
 じつはこのとき中村是公は、イギリス滞在の前にベルリンにいたのである。松井茂によると「余が明治三十四年伯林に滞在中、中村是公君と共にお互いに母の土産を求めようではないかと相談の上、毛布を買つて持ち帰つた」という。松井茂は、一九〇二年(明治三十五)二月五日までベルリンに滞在。オランダ、ベルギー、フランスを経て、イギリスへ渡りロンドンに数日滞在し、アメリカへ渡りサンフランシスコを三月二十二日に発って、四月八日に日本に帰っている。
 中村是公が松井茂と共に二月下旬からロンドンに滞在していたなら漱石が松井茂と会った可能性もあるのだが、『松井茂自傳』には、ロンドン滞在の詳細は記されていない。また漱石全集を見る限り、一九〇二年(明治三十五)二月ごろの漱石の詳細な行動も定かではない。
 さらに漱石は、一九〇九年(明治四十二)に中村是公の招待で満州と韓国を訪問している。その旅行記は『満韓ところどころ』として朝日新聞に連載されたが、韓国の部分は掲載されずに終った。この旅行で漱石は同年九月三十日から十月十三日まで京城(現在のソウル)に滞在している。じつはこのとき、松井茂も韓国にいたのである。
 松井茂は、一九〇七年(明治四十)八月から韓国政府の官吏となり、韓国内部警務局長などとして一九一〇年(明治四十三)七月まで京城にいたのだ。また松井茂は、中村是公がハルビンで伊藤博文の暗殺現場に居合わせた時のことを「凶変の現場には恰かも余の親友満鉄総裁の中村是公君が居合せたる趣の情報にも接したので、同君に対しても余は私信を以て其の旨を電信した。」と自伝に記している。
 学生時代から中村是公の親友であった漱石と松井茂は、たしかに同時期に中村是公の眼差しのなかにいたのだ。中村是公を中心に見ると、漱石と松井茂は極めて近い位置に、同心円の上に存在していたはずなのである。だがどうしても、漱石と松井茂には接点が見出せないのだ。
 たしかに漱石が書き遺した文章には、松井茂という名は見当たらない。しかし不思議なことに、『松井茂自傳』を読んだ後で漱石の作品群を読むと、漱石の作品に登場するエピソードと松井茂の関与した政策などとの間に、奇妙な一致があることを読みとることができるのである。

※大胆な推理をすれば、ロンドンで偶然中村是公に出会った際に、松井茂がいたかどうかは定かではないが、中村是公は漱石に社会教化事業に取り組む同期生たち(松井茂、桑田熊蔵、井上友一[大陸型警察を批判]など)への協力を依頼したのではないだろうか。それに対して漱石は国家主義者に協力できないと突っぱねたのではないだろうか、そしてそれが、『猫』での松井茂ら犬党のヒトビトへの批判につながって行ったのではないだろうか。漱石を満州へ誘ったのは、『猫』で松井茂を批判した漱石の立場が悪くならないようにと中村是公が松井茂と漱石の仲直りかってでたようにもみえる。さらに根拠のない推理をすれば、漱石が下宿の連中と遠足で江の島へ行った際、真水英夫の脚絆を咥えて走って行った「犬」というのは、松井茂を指すのではなかろうか。




5.「ショーペンハウアー」が暗示すること ― 松井茂の恩師穂積陳重の「法律進化論」 [③猫党と犬党、漱石の敵とは]

 不思議なことに、「中村是公」をキーワードにたどっていっても、「松井茂」を介してではあるが、ショーペンハウアーに突き当たる。松井茂の恩師穂積陳重(ほづみのぶしげ:一八五五―一九二六、日本初の法学博士。貴族院議員。男爵。枢密院議長)の論文にショーペンハウアーの名が登場するのである。
 民法典の起草に参画したことで有名な穂積陳重は、「法律進化論」を唱えたことでも知られている。じつは、穂積の「法律進化論」の原点は、ショーペンハウアー哲学にあった。一八八一年(明治十四)、穂積はドイツから帰国すると、同年から翌年にかけて「婚姻法論綱」を著し、「彼鴻學『ダルウヰン』氏、野蛮人中始めて婚姻の風俗興りしより、道徳進歩の一端たなりたるを論じて曰く、『婚姻始めて普通に行はるゝに至れば、夫たる者の嫉妬心より、自然婦徳貞節を修むるに至る。而して、貞節を尊ぶより、未嫁の處女も自然其美風に化するに至る』云々。獨逸の先哲『ショーペンハウワル』氏も、婚姻の人間後世に大関係あるを論じて曰く『婚姻の影響たるや、其及ぶ所啻に現世自己の禍福のみにあらず、また將來子孫の幸福是れ關る。如何となれば、婚姻は後世人を生ずるの始めなればなり』」と、「法律進化論」の根本原理(社会進化の起源である婚姻のはじまり)を「ダーウィンの進化論」を用いて説明し、「ショーペンハウアー哲学」によって基礎付けようとした。
 穂積は「婚姻法論綱」では出典を明示していないが、その内容からショーペンハウアーの『意志と表象としての世界 続編』第四四章「性愛の形而上学」からの引用と思われる。「性愛の形而上学」でショーペンハウアーは「愛の形而上学全体は、わたしの形而上学一般と密接に結びついており、これがわたしの形而上学一般を逆に解明してくれる光を与える」と述べており、ショーペンハウアー哲学の体系の中でも重要な位置を占めている。穂積はショーペンハウアー哲学の体系でも重要な位置を占める「愛の形而上学」によって、社会進化の起源である婚姻の根拠を基礎付けているのである。
 また穂積は「英法の特質」(一九〇三年)で、「嘗て『ショーペンハウエル』が独逸人は其足下に在るものを雲上に之を求めんとすると云へるは、蓋し當を得たる妙評なり。之に於てか、独逸法学は凡て理性(Vernunfut)を基礎とするものなり。独逸の法学は今猶ほ大体に於て『カント』『ヘーゲル』の勢力範圍を脱すること能はず」と、ショーペンハウアーの立場から、ヘーゲルとカントの汎理性主義の法理論を批判している。これは穂積の思想的立場が、ショーペンハウアーの法論に近いことを示している。ショーペンハウアーの法論とは、理性ではなく同情(Mitleid)に基礎を置く道徳によって基礎づけられるというものである。
 それに加えて、穂積は、法律進化の原力である超越的理想法を最も適格に表現したものを、キリスト教における「黄金律」(Golden rule)と位置付けている。このキリスト教の愛アガペーは、ショーペンハウアーによれば、同情(Mitleid)で、儒教の同情(仁)と同じものなのである。つまり、穂積は「法律進化論」で「社会の基源」と位置付けた「婚姻」の根拠を、ショーペンハウアー哲学によって基礎付け、法律進化の契機となる超越的理想法を同情(Mitleid)と位置付けていたことになる。
 このショーペンハウアーの刑法論と穂積の「法律進化論」における「刑法の進化」との間に類似性がみられる。ショーペンハウアーは、『意志と表象としての世界』の第四巻で、復讐→刑罰→正義→愛(アガペー)と論じることによって、正義と人間愛が完全に実践された場合の到達点へ至る経路を示している。同様に穂積は「復讐と刑罰」で、「刑罰は復讐に起り、正義になり、仁愛に終わる」と、復讐→刑罰→正義→仁愛と刑法の進化が復讐から仁愛へと展開するとしている。
 このように穂積陳重は、ショーペンハウアーからの影響を強く受け法律進化論を構想していた。このことは、穂積陳重と漱石が「ショーペンハウアー」というキーワードで結びつく事を示している。さらに漱石が『文学論』の構想について「哲学にも歴史にも政治にも心理にも生物学にも進化論にも関係致候」(明治三十五年三月十五日付中根重一宛書簡)と述べているように、「進化論」というキーワードでも穂積陳重と漱石は結びつくのである。
 つまり、漱石の『文学論』と穂積の「法律進化論」は、「進化論」と「ショーペンハウアー」というキーワードで結びつくのである。このことは、「法律進化論」が『文学論』の隣接分野の先行研究という見方ができるということを示している。
 そしてこれらのことから考えると、漱石が穂積の論稿を読んでいた可能性は極めて高いのである。さらに後に示すように、漱石と穂積は、「模傚(もこう)」と「タルドの『模倣の法則』」というキーワードでも結びつく。そしてこの「模傚(もこう)」と「タルドの『模倣の法則』」は、松井茂が「国民警察」「国民皆警察」などの社会教化事業に応用した理論なのである。
 刑法を社会の進化を補うものと捕らえていた穂積は、一八九〇年(明治二十三)監獄学の専門家として小河滋次郎(おがわしげじろう:一八六三―一九二五、穂積陳重の指導を受けて監獄学に関心を抱き、内務省に入る。社会事業家、監獄学者)を、一八九三年(明治二十六)警察学の専門家として松井茂を内務省へ斡旋した。さらに穂積は、同年十月に「法理研究会」を設立して、松井茂をはじめとした大学出身者の内務官僚たちを指導する。穂積は法律進化論の政策への応用を試みていたのである。



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