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1.国民作家漱石の意外な言葉 ― 警察官は人間失格である [①漱石は志士の如く]

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 夏目漱石が国民的作家だということは知っていたし、『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』『こゝろ』なども読んだことがあった。『吾輩は猫である』には不思議な面白さがあり、『坊っちゃん』にはムチャをするものだと驚かされ、『こゝろ』を読んで「漱石は、暗いな」と思ったものだ。
 わたしは読書家ではなかったから始めて漱石の作品を目にしたのは、国語の教科書であっただろうと思う。漱石は教科書に採用されることが最も多い作家の一人だということだから、ほとんどの日本人が「教科書で」ということなのだろう。最近では、漱石は日本語学校の教科書にも登場するということだから、日本語を話す人ならだれもが、漱石の名前を知っているということになる。漱石は、日本を代表する世界的な作家なのである。
 不思議なことに、この日本を代表する作家漱石の処女作『吾輩は猫である』(『ホトトギス』一九〇五年一月―一九〇六年八月)は、発表の翌一九〇六年(明治三十九)に教科書に採録されている。『再訂女子国語読本』に『吾輩は猫である』が採録されたのが漱石の教科書デビューなのだ(橋本暢夫「中等国語教材史からみた夏目漱石」『国語課教育』一九九一年三月三一日)。つまり、文壇にデビューした翌年に、早くも漱石の作品が教科書に採録されたということになる。
 そんなこともあってか、鴎外が『夏目漱石論』(明治四十三年七月)と題して、以下のような随筆を書いている。「一、今日の地位に至れる径路 政略と云うようなものがあるかどうだか知らない。漱石君が今の地位は、彼の地位としては、低きに過ぎても高きに過ぎないことは明白である。然れば今の地位に漱石君がすわるには、何の政策を弄するにも及ばなかったと信ずる。」と、たしかに政略や政策がなかったにしては、教科書採用が迅速に過ぎる感がある。漱石はデビューの時から、国民的作家であったかのようである。
 その後も漱石の作品は国語教科書に採録され続けて、戦前の国語教科書には欠かせないものになっていく。現在の中学・高校の国語教科書に相当する中等学校国語科教科書には、『草枕』、『吾輩は猫である』などの小説ばかりでなく、随筆、紀行文、評論、日記、書簡、俳句など多岐に及ぶ漱石作品が教科書に採録されていたというから驚きだ。
 さらに驚くことには、戦後もその傾向は続いて、一九九二年(平成四)頃までは、国語教科書の八〇%以上が漱石作品を採録していたという。ここまでくると国家的作家にすら見えてくる。どおりで読書家でないわたしが漱石を読んだことがあるはずである。だれもが教科書で漱石の作品にお目にかかっているのだ。
 漱石の人となりについても、教科書や国語便覧、国語教師の説明などを思い出せば、少しは話せる。漱石といえば、東京帝国大学を卒業して大学院に進学して、イギリスに留学したエリートで、神経質で胃が弱い英語教師だった。これくらいのことは、国語で満点を取ったことがなくても、何とか思い出すことができるはずだ。そして多くの人が漱石はそんな人だったろうと思っているに違いない。じつはわたしも、漱石はそんな人だと思っていた一人だ。
 だが最近、その漱石像が間違いだと気付いた。それはたまたま、漱石のショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788年2月22日―1860年9月21日、ドイツの哲学者)引用個所を調べていて、『文芸の哲学的基礎』を読んだときのことだった。『文芸の哲学的基礎』というのは漱石の講演をもとにした論稿で、この論稿を読んで、これまでの漱石のイメージが一変した。わたしは、漱石についてあまりに知らなすぎた。というより、知っているつもりになっていたことに気付かされた。今思えば、まるで漱石に興味を持つ前に、漱石像が教科書や国語便覧によって作られてしまっていたかのようでさえある。
 驚くことに、『文芸の哲学的基礎』で漱石は、こともあろうに「警察官は人間失格である」(講演を要約するとこうなる)と述べていたのだ。最初は冗談で述べたのかとも思ったが、冗談にしてはあまりにも危険である。戦前の警察を批判しても一銭の得にもならないし、わざわざ冗談で、警察を非難する必然性はどこにもない。漱石の経歴から考えても、漱石が「いや、ちょっと冗談で…」とか、「いや、ついうっかり…」とか言って警察を非難してしまうようなうっかり者にはとうていみえないのだ。となると、どう考えても漱石が意識的に戦前の警察を批判したと考えるよりほかないのである。
 にわかには信じられないのだが、たしかに漱石は第二次世界大戦前の、つまり、戦前の警察を批判していたのである。これは想像を絶する覚悟がなければ、できないことである。そしてこれは、紙幣の肖像画にもなり、だれからも愛される国民作家、という漱石の優等生的なイメージからは、想像もつかないことなのである。漱石はいったいどんな思いで「警察官は人間失格である」などと述べたのだろうか。


2.漱石は志士の如く ―「維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい」 [①漱石は志士の如く]

 漱石は、門弟の鈴木三重吉宛の書簡で「維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい」(明治三十九年十月二十六日付鈴木三重吉宛書簡)と、文学に打ち込む覚悟を述べている。だが、国語の授業で聞いた優等生的な漱石のイメージと、志士というイメージはあまりにかけ離れている。
 もし、漱石が本気で「維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい」という言葉を書いたのなら、漱石の自己イメージと学校教育で培われたわれわれの漱石に対するイメージとが全く違うと言ってよいほど異なっていることになってしまう。われわれ凡人の自己イメージは往々にして誤りがちだが、文豪漱石が自分自身の文学に打ち込む姿勢を見過っていたとすると、滑稽さを通り過ぎて、あまりに不自然である。
 三重吉宛書簡を読み返してみると、漱石は「苟も文學を以て生命とするものならば單に美といふ丈では滿足が出來ない。丁度維新の當士勤王家が困苦をなめた樣な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。間違つたら神經衰弱でも氣違いでも入牢でも何でもする了見でなくては文學者になれまいと思ふ。」とか、「僕は一面に於て俳諧的文學に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい。」などと述べているのだ。
 たしかに国語の授業でも漱石は、神経衰弱であったと聞いた気がする。神経衰弱になったことは有名だが、漱石が「死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な維新の志士の如き烈しい精神」を何時、どのように発揮したのかは国語の授業で聞いた覚えがない。著名な評論家の評論を読んでも、神経衰弱になったことだけがことさらに強調されている。それでは、漱石のイメージが、東京大学卒で東大大学院に進学した神経質な優等生のイメージになりやすい。
 不思議なことに、著名な評論家の評論を読めば読むほど、われわれの漱石のイメージは、志士というよりは、神経質で胃弱な、軟弱な文学青年がそのまま大人になったイメージに繋がっていく。おまけに心理分析をともなった評論では、あたかも漱石が精神病患者か何かのようなイメージを抱かされてしまうのである。著名な評論家たちは漱石の「間違つたら神經衰弱でも氣違いでも」という言葉は信じても、「維新の志士の如き烈しい精神」という言葉は、全く無視しているのである。
 わるいことに漱石には、鴎外のように発禁処分になったり、多喜二のように特高警察に逮捕されたりといった、だれもが「たしかに文学は命がけだな」と首肯するような具体的なエピソードがないのだ。多喜二は特殊な例として別にしても、鴎外と比べても漱石は、危ない橋を渡らない作家にしかみえない。徴兵忌避のために北海道に本籍を移したともいわれており、「死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な」場面は、授業で習った漱石の人生には見当たらないのである。
 漱石が弟子に虚勢を張っただけでないのなら、漱石の生き方や作品から「維新の志士の如き烈しい精神」が伝わってこなければならないはずである。しかし漱石の作品を、著名な評論家がいうような筋で読んでみても、それは一向に伝わってこないのだ。漱石の神経質さがことさらに強調されるだけである。漱石が神経質であることを示すエピソードを漱石の作品群や生活態度から神経質に拾い出し、漱石の神経衰弱や心理面の特異性を裏付けることは、漱石の「烈しい精神」を意図的に覆い隠そうとしているように見える。なぜそうまでして漱石の作品でなく、漱石の心理を分析しなければならないのだろうか。
 評論家たちによって、漱石が日本の近代化・西欧化を批判したとか、当時の日本社会を風刺したとはよく言われるが、彼らの指摘は、「死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な」命がけの批判にしてはかなり物足りないものである。
 『ガリヴァー旅行記』や『動物農場』などの評論では、スウィフトやオーウェルがどの様な表現で、何を風刺して、何を批判したか事細かに解説されている。だが、漱石がどの様な表現で、何を風刺して、何を批判したのかは、漱石の神経質さを漱石の作品群や生活態度から拾い出すほどの精緻さで検証されていないように思える。
 著名な評論家たちは肝心要なところになると、怪気炎だとか、漱石特有の諧謔だとか言い出して、しどろもどろになってしまうのが落ちで、挙げ句の果てに漱石の暗い部分だとか、やれ深淵だとかを振り回して、なにやら得体の知れない崇高さで煙に巻こうとする。われわれが知りたいのは、「維新の志士の如き烈しい精神」が必要なほどの意気込みで、漱石が何を書いたかである。


3.厭世文学―志士スウィフト [①漱石は志士の如く]

 漱石が生きた時代は、探偵小説(推理小説)の黎明期であり、漱石が探偵小説を書き遺していないことが疑問視されることがあるそうである。だが、漱石の作品群を読み返していると、漱石の人生そのものが探偵小説のように構成されているようにさえ思えてくる。われわれは探偵小説を読むような気持ちで漱石の作品を読まなければならないのではないだろうか。
 漱石が三重吉に宛てた手紙で「死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい。」と、漠然と言っただけならば、「維新の志士の如き烈しい精神」というフレーズにこだわる必要は全くない。
 だが問題のフレーズは、「自分のウツクシイと思ふ事ばかりかいて、それで文學者だと澄まして居る樣になりはせぬかと思ふ。現實世界は無論さうはゆかぬ。文學世界も亦さう許りではゆくまい。かの俳句連虚子でも四方太でも此點に於ては丸で別世界の人間である。あんなの許りが文學者ではつまらない。といふて普通の小説家はあの通りである。」に続く言葉で、漱石の脳裏には「虚子」「四方太」「普通の小説家」など、三重吉と共有する具体的な人々のイメージがあるようなのである。
 漱石が「維新の志士の如き」という時、やはり「志士」のような文学者を具体的にイメージして述べたと考えるべきではないだろうか。もし、漱石が「維新の志士の如き烈しい精神」で何を書いたかを知りたいと望むなら、漱石がどの様な作家を「志士」と呼んだかを、まず、知っていなければ話にならない。そうでなければ、この謎は永久に解けない。
 さいわい漱石がどのような作家を志士と呼んだか、そのヒントはすぐに見つけることができる。漱石は一九〇六年(明治三十九)の対談で「写実的のものでは、スイフトのガリバーズ・トラベルスがいちばん好きだ。多くの人はこれを名文と思わないが、これは名文の域を通り越しているから、普通人にはわからぬのである。実に達意で、自由自在で、気どっていない、けれんがない、ちっとも飾ったところがない。子どもにも読めれば、おとなも読んで趣味をおぼえる。まことに名文以上の名文であると自分は思う。」(明治三十九年三月十五日『文章世界』)と、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』を絶賛していたのだ。
 このスウィフトをヒントに、漱石の作品群を読み返せば、意外なほど簡単にそれを見つけることができる。それはまるで漱石が、意図的に推理の材料を作品に忍び込ませているかのようでさえある。
 漱石は、『文学評論』(春陽堂、一九〇九年)の「第四編 スヰフト(Jonathan Swift 1667―1745)と厭世文学」でスウィフトの『ガリヴァー旅行記』を取り上げて詳しく説明していたのである。そこで漱石は「スイフトの風刺は堂々たる文学である、後代に伝ふべき述作である。彼は愛蘭土の愛国者で、故国の為には危きを辞せずして応分の力を尽くした志士である。」(『文学評論』)とはっきり書いているのだ。
 漱石は、「スイフトの風刺は堂々たる文学で」「愛国者で、故国の為には危きを辞せずして応分の力を尽くした志士」と考えていたのである。つまり、漱石にとって志士とは、身が危うくなるような風刺文学を書く文学者(スウィフト)なのだ。漱石は、スウィフトを想い描きながら「維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい」といったに違いない。
 そうだとすると、漱石は常々スウィフトのような風刺作品を書きたいと願っていたのではないだろうか。そして、実際にスウィフトのような風刺作品を書いていたからこそ、自分自身の心構えを示すことで門弟に文学者の心得を示したのではないだろうか。
 それにくわえて、漱石は森田米松宛書簡で「猫の御批評難有頂戴。もう一回でやめる積で居ますが、忙がしくて書けないから閉口だ。所謂写実の極致といふ奴をのべつに御覧に入れてアツと驚かせる積丈は成算が出来て居る。」(明治三十九年五月五日付森田米松宛書簡)と『吾輩は猫である』の最終話(第十一話)で「写実」の極致を見せると述べている。漱石が先の対談で「写実的のものでは、スイフトのガリバーズ・トラベルス」と述べていることと考え合わせると、「写実」の極致とはつまり、「風刺」の極致ということになる。そうすると、漱石はスウィフトの様な風刺作品として『吾輩は猫である』を書いたということになる。
 もしそうなら、漱石は『吾輩は猫である』で「死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な維新の志士の如き烈しい精神」が必要なほどの風刺で、何かを批判しているはずである。


4.扇のかなめのような集注点 ―「カーライル」と「天然居士」が暗示するもの [①漱石は志士の如く]

 漱石の門弟であった寺田寅彦が漱石に「『俳句とはいったいどんなものですか』」と質問したところ、漱石は「『俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。』『扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。』」(『夏目漱石先生の追憶』昭和七年)と答えたという。漱石は、俳句を究極のレトリックと考えていたのである。このことは、漱石が使うレトリック一般にも集注点があることを暗示している。つまり、漱石が彼の作品の中で象徴的に使っている語をキーワードにたどっていけば、「扇のかなめのような集注点」に突き当たるはずなのである。
 『吾輩は猫である』に登場する「カーライル」(第二話、第十一話)は講演を含む漱石作品にたびたび登場している。漱石が、スコットランド出身の歴史家・評論家のカーライル(Thomas Carlyle, 1795年12月4日 ― 1881年2月5日)を好んだことは有名な話である。カーライルの著書では『英雄と英雄崇拝論』(On Heroes, Hero-Worship, and the. Heroic in History, 1841)が特に有名で、カーライルといえば「英雄論」、「英雄」といえばカーライルというほど彼を象徴する作品である。この「カーライル」をキーワードに漱石の作品をたどって行くと、ショーペンハウアーに突き当たる。漱石は『カーライル博物館』(一九〇五年)で「カーライルとショペンハウアとは実は十九世紀の好一対である。」と述べているのだ。
 漱石が現在「ショーペンハウアー」(「ショーペンハウエル」とも)と表記されることが多いショーペンハウアーを「ショペンハウア」と書いていることから、訳語が定着する以前にショーペンハウアーの著書を日本語以外の言語で読んでカタカナ表記したと考えられる。つまりこのことは、漱石が英語訳またはドイツ語でショーペンハウアーの著書を読んだということを示している。
 実際に東北大学所蔵漱石文庫には「Essays of Schopenhauer」と「The Art of Literature」の二冊があり、漱石がショーペンハウアーの著書を所蔵していたことも確認できる。たった二冊であるが、これはショーペンハウアーの著作をかなり広範囲に読み込んでその思想体系を知っている者が、論文作成の際の参考にする目的で、必要な論稿が集録されている冊子を買い求めたように見えるのである。また、漱石が学生時代の読書について「書物は大抵学校で貸し与えたから、格別その方には金も要らなかった。」(『私の経過した学生時代』)と述べていることから、かなり早い時期にショーペンハウアーを読んでいる可能性がある。
 「カーライル」だけではない。漱石が文学者になろうと決意した際に、漱石にアドバイスしたとされる親友の米山保三郎をキーワードにたどって行ってもショーペンハウアーに突き当たる。「米山保三郎」は『吾輩は猫である』では、「天然居士」(第三話、第四話、第六話)として登場する。「米山保三郎」も「カーライル」と同様に講演を含む漱石作品にたびたび登場している。
 「天然居士」こと「米山保三郎」は、「『シオペンハワー』氏充足主義の四根を論ず」という論文を遺している。上田正行氏の「『哲学雑誌』と漱石」『金沢大学文学部論集』(文学科篇, 8: 1-37、1988.02.18)によると、大学時代に漱石は米山とともに『哲学雑誌』の編集委員をしており、先の米山の論文はその『哲学雑誌』一二五号、一二六号(明治三十年七月、八月、全六六頁)の論説欄に二回にわたって発表されたものであるという。「充足主義の四根」というのは、現在は『充足根拠律の4方向に分岐した根について』(Über die vierfache Wurzel des Satzes vom zureichenden Grunde, 1813)などと訳されているショーペンハウアーの学位論文のことである。
 とくに注意しなければならないのは、米山が批判した『充足根拠律の4方向に分岐した根について』という論文は、ショーペンハウアーの主著の『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung, 1819)を理解するために読む必要があるくらいで、それを目的にしない人はまず目もくれないという代物だということである。このいわば特殊な論文を漱石の親友米山が読んでいたという事実である。
 このことから推理すると、漱石が『吾輩は猫である』で「天然居士」と米山を暗示したり、講演などで米山の名を繰り返し上げたりするのは、ただ友人を懐かしく思っただけでなく、日本で最も早い段階に『充足根拠律の4方向に分岐した根について』を漱石自身も読んでいたことを暗示しているのではないかと考えられる。
米山は「『シオペンハワー』氏充足主義の四根を論ず」で唯物論的な立場からショーペンハウアーの表象論を否定しているが、漱石は『文芸の哲学的基礎』でショーペンハウアー的な表象論を展開しており、漱石が『充足根拠律の4方向に分岐した根について』や『意志と表象としての世界』を読んでいた可能性は極めて高い。
 実際に漱石は、『文芸の哲学的基礎』でショーペンハウアー的な表象論を展開した後に「ショペンハウワーと云う人は生欲の盲動的意志と云う語でこの傾向をあらわしております。まことに重宝な文句であります。私もちょっと拝借しようと思うのですが、前に述べた意識の連続以外にこんな変挺なものを建立すると、意識の連続以外に何にもないと申した言質に対して申訳が立ちませんから、残念ながらやめに致して、この傾向は意識の内容を構成している一部分すなわち属性と見做してしまいます。」と述べている。
 このことから、漱石の立場が実体的な意志を認めない意識一元論、つまり実体的な意志を認めない表象一元論の立場であることがうかがえる。これは当時ショーペンハウアーを日本に紹介した哲学者の井上哲次郎(いのうえてつじろう:一八五六―一九四四、日本人初の哲学教授。東西の思想の融合統一をめざすとともに、日本主義を唱えた。東京帝国大学名誉教授)や姉崎正治(あねさきまさはる:一八七三―一九四九、東京帝国大学哲学科卒業。宗教学者、評論家。一九一一年ショーペンハウアーの主著を『意志と現識としての世界』と題して翻訳出版)が、実体的な意志を認める意志一元論の立場でショーペンハウアーを解釈したのとは対照的である。
 当時、井上哲次郎は『倫理と宗教との関係』(一九〇二年)で「現象即実在」との考えを示し、「日本民族は、仏教と基督教とを融合調和すべき天職を擔へるものにして、―中略―日本民族は東西ニ種の文明を結婚せしむる媒介者なりといふべきなり」と述べているが、漱石は『文学評論』(一九〇三年九月~一九〇五年六月までの講義が元)で「我々日本人が考えると何も神と云ふ事と哲学的思想とは関係のない者である。神は神、哲学は哲学でよからう様に考へられる」。「基督教の根拠は神であつて此神から人間も天地も出来て居るのだからして、―中略―どうにか神の始末をつけねばならぬ。従つて欧州の哲学者は神のことを云々せざるを得ない。我々日本人は違ふ。根本的にそんな影響を蒙つて居らんから神抔をどんなものだと考へる必要もない。西洋の哲学書にある神抔の受売りをする必要はない。」と述べている。
 漱石は神や意志などを実体的な世界原因と考えない立場で、井上哲次郎、姉崎正治等は神や仏、意志などを実体的な世界原因と考える立場なのである。まるで漱石が、大学講師時代の上司に当たる井上哲次郎や姉崎正治(学生時代は漱石の後輩)の哲学を否定しているかのようである。
 以上のように「カーライル」と「天然居士(米山保三郎)」をキーワードにたどって行くと、ショーペンハウアーに突き当たるのである。


5.英雄ショーペンハウアー ― 英雄の見る処は大概同じである [①漱石は志士の如く]

 不思議なことに、「カーライル」や「天然居士(米山保三郎)」と同様に「厭世」と「英雄」をキーワードに漱石の作品をたどって行くと、ショーペンハウアーに突き当たる。
 漱石は一九一〇年(明治四十三)ごろの「断片」で「或る香をかぐと或る過去の時代を臆起して歴々と眼前に浮んで来る朋友に此事を話すと皆笑つてそんな事があるものかと云ふショーペンハワーを読んだら丁度同じ事が書いてあつたさすが英雄の見る処は大概同じであると我ながら感に入つた我輩を知りもせぬもの迄が我輩を称して厭世家だ杯と申す失敬だと思つて居つたが成程厭世家かも知れぬ」(倫孰の香ひ 十月ニナルト去年ノ十月ヲ臭デ思出ス 明治四十三年「断片」)と、ショーペンハウアーを英雄と呼び、ショーペンハウアーと同じなら自分も厭世家かもしれないと述べている。
 漱石が述べているようにショーペンハウアーは厭世哲学者として有名である。一八九二年(明治二十五)に中島力造(なかじまりきぞう:一八五八―一九一八、明治-大正時代の倫理学者)が「欧州厭世哲学」(『本郷会堂学術講演』警醒社、一八九二年)で、ショーペンハウアーを厭世哲学者と紹介していることなどから、漱石の大学生時代には、既にショーペンハウアーは厭世哲学者として理解されていたと思われる。
 漱石は「厭世」について『文学評論』で「凡そ吾人の厭世に傾く原因のうちで其最も大なるものは何であらうと考へて見ると、私は斯う思ふ。―吾人が吾人の生活上に、所謂開化なるものの欠くべからざるを覚ると同時に、所謂開化なるものの吾人に満足を与ふるに足るもので無いことを徹底に覚つた時である。」「所謂文明なるものは過去、現在、未来に互りて到底人間の脱却することの出来ぬものであると知ると同時に、文明の価値は極めて低いもので、到底この社会を救済するに足らぬと看破した以上は、腕を拱いて考へ込まなければならぬ、天を仰いで長大息せねばならぬ。厭世の哲学は這の際に起るものである。厭世の文学は這の際に起るものである。」などと述べている。このことと、漱石が、厭世哲学者ショーペンハウアーと自己を同一視していることを考え合わせれば、漱石の文学も「厭世の文学」に分類できそうである。
 また、先に述べたように漱石が好んだカーライルは『英雄と英雄崇拝論』がとくに有名であることから、漱石がいう「英雄」は、カーライル的な「英雄」、つまり、道徳的意志を体現した英雄や偉人なしには歴史的進展はないという意味での「英雄」であると推理することができる。漱石もショーペンハウアーと同様に「英雄」というのだから、ショーペンハウアーの道徳論と漱石と何か関係がありそうである。
 じつは、漱石が「英雄」と呼ぶショーペンハウアーは、道徳の基礎を同情(Mitleid)に置いた哲学者として有名なのである。ショーペンハウアーは、人間の行為の根本衝動を①「自己の快を欲するエゴイズム」②「他者の不快を欲する悪意」③「他者の快を欲する同情」の三つに分類し、③の同情にもとづく行為のみに道徳的価値を認めている。同情にもとづく行為というのは、他者の快を侵害しない公正と他者の快を増大させる人間愛の行為のことで、このショーペンハウアーがいう意味での「同情」は「同苦(Mitleid)」と呼ばれている。
 冒頭に挙げた匂いのエピソードだけでなく、ほかにも漱石と、漱石が「英雄」と呼ぶショーペンハウアーに共通する点がある。漱石が「ガリバーは普通人には理解できない」というスウィフトの『ガリヴァー旅行記』をショーペンハウアーも評価しているのだ。ショーペンハウアーは主著『意志と表象としての世界』で「ハムレットならこのガリヴァーの作者を『なかなか辛辣なやつ』(『ハムレット』第二幕第二場)と呼ぶであろうが、作者が言おうとしていたことをよく心に留めるためには、『ガリヴァー』の物語の中の物質的なことがらをすべて精神的に解釈し直しさえそれでよいのである。」と書いているのである。
 漱石は『文芸評論』でショーペンハウアーがいうように物質的なことがらを精神的に解釈して『ガリバー旅行記』を以下のように解説している。
 「人間は大きくなればなる程傍若無人の非行を逞しくする。又人間の大小なども要するに比較的のもので、小人國では山の様な男と呼ばれたガリヴァが大人國へ来ると宛然たる小人國民である。同時に小人國の住民の眼にさへも更に小人國の民と見える様な小人が無いとは限らん。と斯う云つた哲理は少しく頭脳の発達した人には誰にでも解る。」と。なるほど、「英雄の見る処は大概同じ」である。
 このように「厭世」と「英雄」をキーワードに漱石の作品をたどって行っても、「カーライル」や「天然居士(米山保三郎)」と同様にショーペンハウアーに突き当たるのである。これ以上はくどくなるので書かないが、漱石の作品に登場する「ニーチェ」「ハルトマン」「ケーベル」「寺田寅彦」「自殺」などをキーワードにたどって行っても、ショーペンハウアーに突き当たるのである。



6.「英雄」が批判したもの ― 道徳性教育教化機関 [①漱石は志士の如く]

 志士スウィフトに劣らず、英雄ショーペンハウアーも辛辣な表現で有名である。なかでも『道徳の基礎について』(Über das Fondament der Moral, 1840)という論文は群を抜いている。この『道徳の基礎について』が。日本で初めて和訳されたショーペンハウアーの著書である。一八九四年(明治二十七)に、中江兆民がフランス語訳の『道徳の基礎について』を『道徳学大原論』(一二三館、一八九四年)と題して邦訳している。
『道徳の基礎について』は、ショーペンハウアーがデンマーク科学院の懸賞論文に応募した際の論文で、彼の論文が唯一の応募論文であったにもかかわらず落選したといういわくつきのものである。ショーペンハウアーはこの論文の出版に際して、わざわざ「落選」と明記した上でデンマーク科学院の「判定」を掲載しているのだ。
 『道徳の基礎について』には辛辣な表現が多い。それは、この論文を収録した『倫理学の二つの根本問題』(Die beiden Grundprobleme der Ethik, 1841)の「第一版への序文」でショーペンハウアー自身がデンマーク科学院(「デンマーク科学院」「デンマーク学士院」両方の表記あり)の「判定」を引用しつつ「『現代の二、三の卓越せる哲学者たちがかくも不当な扱いを受けているので、それは当然のことながらはげしい憤りを覚えさせる』となっている。この『卓越せる哲学者』とはつまりフィヒテとヘーゲルのことだ!なぜならこの二人についてのみ、わたしは烈しい遠慮のない表現をもって、おそらくデンマーク学士院がかかる言いまわしをとらざるをえないほどの口調で語ったからである。」と述べるほど辛辣である。
 とくにヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770 ― 1831、ドイツの哲学者)に対しては「デンマーク学士院のこの『卓越せる哲学者』はいまだかつて先例のないほどナンセンスなことをなぐり書きしたのだから、彼の最もほまれ高き書物、通称『精神現象学』を読んで精神病院にいるような気持ちにならない人は同じく精神病院行きだ」、「王立デンマーク科学院が『現代の卓越せる哲学者たち』と語り、わたしは無作法にも彼らに然るべき敬意を払わなかったと言うとき、最も手ひどく扱われたのはヘーゲルなのだから、まさしく彼こそ当該の人物なのだ。つまり科学院は、わたしの論文のたぐいを厚顔な非難をもって却下したあの法廷から、いまや公然とこのヘーゲルを『卓越せる哲学者』よばわりしているのである。」などと、辛辣さを極めている。
 ショーペンハウアーは『倫理学の二つの根本問題』を著す二十八年前に著した『充足根拠律の4方向に分岐した根について』でもヘーゲルを批判している。『充足根拠律の4方向に分岐した根について』の「第五八節 想像力と理性についての自説の弁護」でその論述内容について「理性はそれ自体では徳や聖性の源泉ではない―中略―理性は概念の能力なのであり、したがって諸概念に従う行為を導く能力なのである。ということはそれは、徳や聖性にとっては必要条件の一つにすぎないことになる。そしてそうした条件であるとは言え、理性もまた想像力と同様、道具にすぎない。」と説明し、「理性については、―中略―それは私なりの説明であって、この説明の仕方ではおそらく満足できない人々がいるであろう。すなわちそれは、理性に実践的という肩書を与えることで、それを有徳の士や聖人をつくる能力であるとし、もってそれが人間における最善のものであると見なす人々である。ましてや、理性を『絶対的認識能力』と呼んで神格化する人々は、なおさら私の説明の仕方では満足できないであろう。」と、理性を人間における最善のものであると見なすカントや理性を神格化するフィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどとの理性の解釈の違いを強調している。
 ヘーゲルの『法の哲学』(Hegel, Georg., Grundlinien der Philosophie des Richts, 1821)によれば、国家とは、理性的なものであり、倫理的理念の実現性で、実体的意志としての倫理的精神であるということになる。理性を有徳の士や聖人をつくる能力と考えたり、理性を神格化したりせずに理性を道具と捉えるショーペンハウアーに理性的な国家が道徳と結び付くということを許せるはずはない。それは道徳を道具と考えることになるからである。
 ショーペンハウアーは『道徳の基礎について』で道徳と国家が結びつくことについて、真っ向から反対している。ショーペンハウアーは「この低劣な時代におけるドイツの似非哲学者たちの幾人かは、国家を道徳性教育教化機関に曲解したがっている。その背後からは、個々人の人格的自由と個性的発展とを止揚し、個人をシナ的な国家機械、宗教機械のたんなる歯車にしようという、イエズス会的目的が機をうかがっている。しかし、これは、いつか来た道、かつて宗教裁判、異端糺問、宗教戦争に行きついた道である。『わが国では、各人が各人個有の方法によってみずからの至福を配慮することができなければならぬ』というフリードリヒ大王の言葉は、大王がこの道をすすむ意図をまったくもっていないということを意味したのだった。ところが、われわれの見るところ、いまでもなおあらゆる国々において(北アメリカは例外だといわれるのも、事実というよりむしろ外見だけのことである)、国家がその成員の形而上学的欲求の配慮をも引き受けているのである。」と述べて、「国家を道徳性教育教化機関」と考えることを完全に否定している。
 ショーペンハウアーは内発的な同情(同苦[Mitleid])を重視したからこそ、外からの強制にしかならない国家や教団による「道徳性教育教化」を、個人を機械の歯車にしようとしていると批判したのである。
漱石が行き過ぎた国家主義を嫌い、道徳を重んじ、特に道義的同情を重視したことを思い合わせると、漱石がショーペンハウアーの影響を少なからず受けていたように思える。漱石が「道徳性教育教化機関」を痛烈に批判したと、著名な評論家や研究者が指摘していないことが、不自然に見えるくらいである。



7.漱石の敵 ― 犬党にして器械的+探偵主義 [①漱石は志士の如く]

 漱石が「英雄」と呼んだショーペンハウアーが批判したものについて見たが、漱石が『吾輩は猫である』で批判したものは、いったい何だったのだろうか。批判というからにはその対象が必要となるが、漱石が「維新の志士の如き烈しい精神」で批判したとなると、その相手は漱石の「敵」と呼んでも差し支えないだろう。漱石の敵について考えながら、漱石の作品群を読み進めていくと書簡集にそれを裏付ける証拠がある。たしかに漱石には敵がいたのである。
 漱石は虚子宛の書簡で「僕は十年計画で敵を斃すつもりだったが近来是程短気なことはないと思つて百年計画にあらためました。百年計画なら大丈夫誰が出て来ても負けません。」(明治三十九年十一月十一日付虚子宛書簡)と書いている。文学上の敵とも考えられるが、漱石は「維新の志士の如き烈しい精神」で文学に取り組んでいたことから、漱石が思い描いている敵は、もっと大きなものと考えられる。いったい何を想定して敵と呼んだのだろうか。
 推理の定石としては、漱石と「水と油」、漱石と「犬猿の仲」の人物や組織などを探れば良いということになりそうだ。また、英文学者であった漱石の経歴から判断すると、もし漱石が何かメッセージを残すとすれば簡単な英語を絡めて暗号を残すと考えるのが普通だろう。
 そうすると、まず「水と油」(oil and water)が頭に浮かぶ。だが、「水と油」は既に『文学論』(大倉書店、一九〇七年)の「序」で「倫敦の人口は五百万と聞く。五百万粒の油のなかに、一滴の水となつて辛うじて、露命を繋げるは余が当時の状態なり」と、イギリス留学時の漱石とイギリス社会の関係を表す比喩として使われているので「水と油」はなさそうだ。
 そうすると「犬猿の仲」の可能性が高そうである。当初『吾輩は猫である』の題名が『猫伝』であったことから推理すると、「猫」が何かを象徴しているということになるだろう。日本語で考えれば、「猫」に対しては「小判」、「猫」の敵といえば「鼠」(正確にいえば鼠の天敵が猫)ということになってしまうが、英語で「犬猿の仲」を考えると、「犬猿の仲」はcat and dogとなるのである。探偵小説ではありえないほど簡単に、「猫」の敵は「犬」と推理できる。
 そして「犬」をキーワードに漱石の書簡集を読んでいくと、漱石が明治三十九年六月七日付鈴木三重吉宛書簡の「今の世に神經衰弱に罹らぬ奴は金持ちの魯鈍ものか、無教育の無良心の徒か左らずば、二十世紀の輕薄に滿足するひやうろく玉に候。もし死ぬならば神經衰弱で死んだら名譽だらうと思ふ。時があつたら神經衰弱論を草して天下の犬どもに犬である事を自覺させてやりたいと思ふ。」という文章に突き当たる。漱石は「天下の犬どもに犬である事を自覺させてやりたい」とはっきり書いているのである。漱石の敵は「犬」だったのである。では、漱石はなにを「犬」と呼んだのであろうか。
 さらに「犬」をキーワードに漱石の作品群を読むと、すぐに「犬」が何を象徴しているかわかる。明治三十八年十一月から明治三十九年夏頃の「断片」に「現今の文明は天下の大衆を駆って悉く探偵的自覚心を鋭敏ならしむる世なり。思ふに自覚心の鋭きものは安心なし。起きて居るうちは無論の事寝て居る間も飯を食ふ間も落ちつく事なし。此故に探偵を犬と云ふ」とある。漱石は、「探偵」を「犬」と呼んでいるのである。
まだほかにも、漱石の敵を推理するうえで気になる言葉がある。漱石は森田草平宛の書簡で自身を「猫党にして滑稽的+豆腐屋主義」(明治三十九年十月二十一日付森田米松[森田草平]宛書簡)と、呼んでいるのだ。漱石自身が「猫党」ということであるから、これに対する党派が漱石の敵ということになる。
 この言葉にならってこれまでの推理結果を表現すると、漱石の敵が「犬」で、漱石が「探偵」を「犬」と呼んでいることから、「猫党」に対しては「犬党」、「豆腐屋主義」に対しては「探偵主義」となり、「犬党にして○○的+探偵主義」となる。では「豆腐屋主義」とは何なのだろうか。
 「豆腐屋」という語について調べてみると、『二百十日』『私の個人主義』『文芸の哲学的基礎』『硝子戸の中』などに「豆腐屋」という語が登場する。なかでも『私の個人主義』で漱石は「国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家と云ってあたかも国家に取りつかれたような真似はとうてい我々にできる話でない。常住坐臥国家の事以外を考えてならないという人はあるかも知れないが、そう間断なく一つ事を考えている人は事実あり得ない。豆腐屋が豆腐を売ってあるくのは、けっして国家のために売って歩くのではない。」(『私の個人主義』―大正三年十一月二十五日学習院輔仁会において述―)と、「国家主義」を批判する際に「豆腐屋」を例示して批判しているのである。漱石は、漱石が考える「個人主義」を「豆腐屋主義」と呼び、「国家主義」を批判したと思われる。この類比から、漱石が批判した「国家主義」は「探偵主義」ということになる。
 「猫」と「豆腐屋」に対応する語は、「犬」と「探偵」とすぐわかるが、「滑稽的」に対する語は少々難問である。漱石は『吾輩は猫である』で探偵的になる二〇世紀の人間の特徴を「人間の行為言動が人工的にコセつく」などと述べていることから「人工的」と推理できる。だが『文芸の哲学的基礎』では「探偵」を「器械」と呼んでいることから「器械的」とも推理できる。「人工的」でも「器械的」でもどちらでもよさそうなものであるが、「滑稽」の語源について調べてみると、「器械的」の方が相応しいことがわかる。
 滑稽の語源は『史記』の用法からきていて、「滑」は「なめらか」、「稽」は「考える」という意味がある。つまり、「滑稽」は「なめらか」に「考える」という意味になる。そう考えると、「考えることもなく」(「考える」の反対)ただ「カタカタ」(「なめらか」の反対)と動く「器械」の方が「人工」より「滑稽」に対する語としてふさわしいといえる。
 漱石の「猫党にして滑稽的+豆腐屋主義」という表現に倣えば、漱石の敵は、「犬党にして器械的+探偵主義」となる。



「猫も杓子も」・・・ 「猫」が暗示するもの。「猫党にして滑稽的+豆腐屋主義」の「猫党」について 補足  [①漱石は志士の如く]

漱石は森田草平宛の書簡で自身を「猫党にして滑稽的+豆腐屋主義」(明治三十九年十月二十一日付森田米松[森田草平]宛書簡)と、呼んでいることについては、すでに書いた。

書き忘れていた点があるので、補足しておく。

漱石が英雄と呼んだアルトゥル・ショーペンハウアーの姓ショーペンハウアー(低地ドイツ語: Schopenhauer)は、木製玉杓子の職人という意味の姓なのだそうだ。

わが国には、「猫も杓子も」(意味は、誰も彼も、何もかも、一緒くたにというたとえ)という表現がある。

「猫や杓子は日常生活において目につきやすい」ということが語源という説があるらしい。

この説によれば、「猫」と「杓子」が「日常生活において目につきやすい」ものとして、列挙されている表現ということになる。

日本人の日常生活において目につきやすいものの代表例が、「猫」と「杓子」なのである。

つまり、「猫」といえば「杓子」なのである。

だとすれば、

『吾輩は猫である』の「猫」や、

漱石が自身を「猫党」と呼ぶときの

「猫」が、「杓子」を暗示していると言えるだろう。

もし、

「猫」が、「杓子」を暗示しているとすれば・・・

「杓子」⇒「杓子の職人」⇒「木製玉杓子の職人」⇒ショーペンハウアーとの連想は容易だ。

「猫」が、ショーペンハウアーを暗示しているといえるのではないだろうか。



『吾輩は猫である』は、猫の誕生から、死までを表現しつくしており、漱石の死生観が顕わになっている。

たしか漱石は、命を意識の連続とかなんとか書いていた(『漱石全集』)が、

それは、ショーペンハウアーの死生観と一致している(白水社の『ショーペンハウアー』全集のどこかに書いてあった。)。

漱石とショーペンハウアーの思想は、かなり深い所で一致している。

自称漱石研究者は、

漱石がアルトゥル・ショーペンハウアーを英雄と呼んだことをもっと深く考えるべきだろう。



漱石は近代人が探偵化すると、近代人を探偵に喩えた。

この漱石がいう「探偵」と、ショーペンハウアー『生活の知恵のためのアフォリズム』で「ペリシテ人」に喩えた人々や「子犬」に喩えた虚栄心の強い人などは、漱石の「探偵」と一致するように思われる。

ショーペンハウアーは同書で、騎士の名誉の回復方法について書いているが、漱石の『坊ちゃん』での坊っちゃんとヤマアラシの赤シャツに対する行為は、騎士の名誉による行為に似ている気がする。

あまりにストレートなネーミングでつまらないが、『坊ちゃん』に登場するヤマアラシが、ショーペンハウアーのヤマアラシの寓話(ヤマアラシのジレンマとして有名)に描かれているヒトビトを暗示していると思って『坊ちゃん』を読めば、『坊ちゃん』に登場するヒトビトの押しあいへし合いぶりがヤマアラシの寓話に出てくるヤマアラシたちのように見えてくるだろう。

ショーペンハウアーの『生活の知恵のためのアフォリズム』の「騎士の名誉」に関する記述を読むと、だれもが、新渡戸稲造が『武士道』を書くときにショーペンハウアーをパクったのではないかと思うのではないだろうか?

また、ショーペンハウアーの国民の名誉は騎士の名誉と市民の名誉を結びつけるという言葉は、漱石が指摘する探偵化と同じものを暗示しているかのようである。












[再掲]「警察の裏金問題」を指摘した嚆矢は、夏目漱石『永日小品』である。 [①漱石は志士の如く]

このブログの
2.漱石の暗い部分 ― 心理分析の前に [第二章 漱石の文明批判と未来予測]
ですでに書いたが、

「警察の裏金問題」を指摘した嚆矢は、夏目漱石の『永日小品』である。

漱石は、一九〇九年(明治四十二)の『永日小品』(一月から 三月に『朝日新聞』に掲載)で、警視庁の機密費について
捉まえると刑事の方が損になるものだそうだ。泥棒を電車に乗せると電車賃が損になる。裁判に出ると、弁当代が損になる。機密費は警視庁が半分取ってしまうのだそうだ。余りを各警察へ割りふるのだそうだ。
と記している。

漱石は、警視庁の機密費が本来の目的以外で使用されていることを指摘しているのである。

これは、現在の用語でいえば「警視庁の裏金」ということになる。

漱石は、100年以上も前に、警察の裏金の存在を公にしていたのである。

漱石の「探偵」批判は、「探偵」を「警察」の比喩として使って、警察を批判していると考えるべきだろう。

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